渡辺京二『逝きし世の面影』第十四章 心の垣根2015年01月25日 00:00

『逝きし世の面影』渡辺京二/平凡社

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第十四章 心の垣根


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 凧あげはめざましい光景だった。一八六一(文久元)年の春、前年に続いて再び日本を訪れたフオーチュンは、長崎の市街と郊外の上空に凧が群れているのを見た。彼は最初、それを鴎の群れと見間違えた。凧はダイヤモンド型をしていて、赤、白、青といった鮮やかな色が塗られていた。

「通りという通りで、屋根の上で、丘の中腹で、野原で、あらゆる年齢の男女が大勢、うち興じていた。みんな陽気で、満ち足り、しあわせそうだった」。ヴェルナーはおなじ年の四月、長崎の金比羅様の祭礼の行事である凧あげを見た。金比羅山の頂上に至る一・六キロの参道は、「ぎっしりと数珠つなぎになった人で一筋の線のようになっていた」。

二時間半のしんどい登りのあと頂上に着くと、そこは円形の台地になっていて、「すでに何千という凧が三〇メートル上空で入り乱れ、うなり声を上げていた。……少なくとも一万人が群れ集まっていた。……台地は豊かな緑におおわれ、そこに家族連れが休息場所をつくり、持参した弁当をひろげていた」。ヴェルナーたちは「行く先々で手をひかれ草の上に坐らされた」。

日本人たちは酒、茶、食事、煙草などでもてなし、何とか彼らに楽しんでもらおうとやっきになっていた。ヴェルナーは感動した。「ここには詩がある。ここでは叙情詩も牧歌もロマンも、人が望むありとあらゆるものが渾然一体となって調和していた。平和、底抜けの歓喜、さわやかな安らぎの光景が展開されていた」。
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 その安息と親和の世界には、狂者さえ参人を許されていた。フォーチュンはディクソンら友人とともに鎌倉を訪ねたが、町中に入ると女が一人道路の真中に坐りこみ、着物を脱いで裸になって煙草を吸い始めた。明らかに気が違っているのだった。

フォーチュンらが茶屋で休んでいると、彼女がまた現われて、つながれているフォーチュンらの馬に草や水を与え、両手を合わせて馬を拝んで何か祈りの言葉を眩いていた。彼女は善良そうで、子どもたちもおそれている風はなかった。

フォーチュンたちはそれから大仏を見物し、茶屋へ帰って昼寝したが、フォーチュンが目ざめて隣室を見やると、さっきの狂女が、ぐっすり寝こんでいる一行の一人の枕許に坐って、うちわで煽いでやっていた。そしてときどき手を合わせて、祈りの言葉を眩くのだった。

彼女はお茶を四杯とひとつかみの米を持つて来て、フオーチュン一行に供えていた。「一行がみんな目をさまして彼女の動作を見つめているのに気づくと、彼女は静かに立ち上がって、われわれを一顧だにせず部屋を出て行った」。狂女は茶屋に出人り自由で、彼女のすることを咎める者は誰もいなかったのだ。

当時の文明は「精神障害者」の人権を手厚く保護するような思想を考えつきはしなかった。しかし、障害者は無害であるかぎり、当然そこに在るべきものとして受け容れられ、人びとと混りあって生きてゆくことができたのである。
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☆568p
 幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの完成の域に達した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明であった。

しかしそれは滅びなければならぬ文明であった。徳川後期社会は、いわゆる幕藩制の制度的矛盾によって、いずれは政治・経済の領域から崩壊すべく運命づけられていたといわれる。そして何よりも、世界資本主義システムが、最後に残った空白として日本をその一環に組みこもうとしている以上、古き文明がその命数を終えるのは必然だったのだと説かれる。

リンダウが言っている。「文明とは、憐れみも情もなく行動する抗し得ない力なのである。それは暴力的に押しつけられる力であり、その歴史の中に、いかに多くのページが、血と火の文字で書かれてきたかを数え上げなければならぬかは、ひとの知るところである」。むろんリンダウのいう文明とは、近代産業文明を意味する。

オールコックはさながらマルクスのごとく告げる。「西洋から東洋に向う通商は、たとえ商人がそれを望まぬにしても、また政府がそれを阻止したいと望むにしても、革命的な性格をもった力なのである」。
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 つまりオールコックは、日本人の賞揚すべき美徳とは社会生活の次元にとどまるもので、より高次の精神的な志向とは無縁のものだといいたかったのだ。そのことをブスケはより直截に表現した。

すなわち彼によれば、日本の社会にはすぐれてキリスト数的な要素である精神主義、「内面的で超人的な理想、彼岸への憧れおよび絶対的な美と幸福へのあの秘かな衝動」が欠けており、おなじく芸術にも「霊感・高尚な憧れ・絶対への躍動」が欠けているのである。

そのことと、日本語が「本質的に写実主義的であり、抽象的な言葉や一般的で形而上的な観念について全く貧困である」こととは、密接な関連があるとブスケは考えていた。

渡辺京二『逝きし世の面影』第十三章 信仰と祭 22015年01月24日 00:00

『逝きし世の面影』渡辺京二/平凡社

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第十三章 信仰と祭


532p
 「"宗教――キリスト教徒が知るような宗教において不可欠とされるものを伝え保存すること、それによって心の最も高い願望と、知性の最も高貴な着想とをかき立てること、迷信の力を削ぎ寛容を説くにとどまらず、生きた信仰と行動への正しい動機、つまりは人間性に許された最高のものを最優先の地位につけること"――これが文明であるとするならば、日本人は文明をもたない」。

このように言うときオールコックはキリスト教文明以外の文明のありようを頭から否定しているのではない。だが、彼がキリスト教文明を最高の文明と考えていたのは確実である。そしてもし宗教がこのようなものとして定義されるならば、日本の宗教がおよそ宗教の名に値せぬ迷信と娯楽の混合物に見えるのはあまりに当然だった。

オールコックだけのことではない。当時の欧米人観察者の大多数は、神との霊的な交わりによって、個人の生活と社会の営みにより高い精神的水準がもたらされるものとして、宗教を理解していたのである。すなわちそれは人間性の完成と道徳的進歩という十九世紀的理念に浸透された宗教観だった。そんな途方もない基準を適用されたとき、幕末・明治初期の日本人が非宗教的で信仰なき民とみえたのは致しかたもないことだった。
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だがエドウィン・アーノルドは、こういった日本人の信仰のありかたを、格別怪しからぬとも劣等とも考えはしなかったようだ。彼はリゴリスティックなプロテスタンティズムを嫌って、むしろ仏教に理想の宗教を見出した人だった。

彼が「彼らはあらゆる縁日や祭――すなわち彼らの"聖者の日"を、市や饗宴と混ぜあわせる」といい、さらに「宗教と楽しみは日本では手をたずさえている」というとき、それが非難ではなくむしろ讃嘆に近いのは、彼のそういう祭の描写がよろこびに満ちていることで知れよう。「彼らは熱烈な信仰からは遠い(undevotional)国民である。しかしだからといって非宗教的(irreligious)であるのではない」と彼がいうのは注目すべき言表だろう。

つまり彼は、神に身心を捧げるような熱烈な信仰は好きではなかったのである。彼にとって望ましい宗教とは、日本人がその例を示しているような、生活のよろこびと融けあった、ギメ風にいえば心安く親しみのある宗教だったと言ってよかろう。

☆542p
 結局、日本庶民の信仰の深部にもっとも接近したのは、アリス・べーコンであったようだ。彼女は二度目の訪日(明治三十三年から二年間)の際、とある山間の湯治場に二、三週間滞在したことがあった。そこで彼女は村はずれで小さな茶屋をいとなむ老夫婦と仲よしになった。

夫の方は木の根で天狗とかさまざまの奇怪な動物などを細工する″芸術家″で、陽気な老女はいつも山中に入って、夫のためにしかるべき木の根を探してくるのだった。アリスたちが店を訪れると、彼女は岩から湧き出る冷たい水を汲んでくるやら、お茶をいれるやら、羊襄を出すやら大奮闘を開始するのだったが、

アリスたちは彼女からここいら一帯の民話を聞き出すのが面白かった。彼女は村を見おろしている岩の頂上は天狗が作ったのだと教えてくれ、天狗の風穴のところまで彼女たちを案内してくれた。天狗はもうこの森から去っていまはいないと彼女は言うのだった。

というのは、夜、店を閉めるときにあたりを窺ってみても、その姿が見えないからである。猿たちも少なくなりましたと彼女は言った。アリスたちは彼女から、森の中にいるマムシをとらえて酒に浸たすと薬になるのだという話を聞いた。なるほど村の八百屋の棚には、とぐろを巻いた蛇の入った壜が置かれていた。

ある日彼女はアリスたちを呼びとめて、もうちょっと早くおいでになるとよかったのにと言った。山の神様の使いである大きな黒蛇がいましがたここを通ったというのだ。彼女自身はそれを以前も見たことがあって、珍らしくはなかったけれど、アリスたちがきっと興昧をもつに違いないと彼女は考えたのだった。

「いとしき小さな老女よ、その親切な顔つきと心地よい物腰よ、そして彼女のやさしいしわがれ声よ。神秘で不可思議な事物に対する彼女のかたい信念は、かしこい人々はとっくに脱ぎすてているものだけれど、わが民族の幼年時代に立ち合うような気持に私たちを誘なってくれたし、さらに、すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感を、私たちの心に湧きあがらせてくれた」。

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 古き日本人の宗教感情の真髄は、欧米人や赤松のような改革派日本人から迷信あるいは娯楽にすぎぬものとして、真の宗教の埒外にほうり出されたもののうちにあった。篠田鉱造は「八十八ヶ所のお大師さん参り」の楽しみを語った老女の話を『明治女百話』に採録している。

「倅に嫁でも迎えたら、この御参詣に加わって、大勢男女打連立て、浮世話や軽口を聞いて、ご信心をしますと、胸がスッキリして、頭がスーッとするんです」というこの老女の「ご信心」とはいったい何だったのだろうか。一日十二里をきまって歩くというこの強行軍の楽しみは、仲間との浮世話や軽口もさることながら、行く先々での人びととの交歓にあったようだ。

練馬では「村の衆が沢庵の厚切と、野菜の煮たのを用意して」迎えてくれる。「こっちのお弁当はまた、あっちへ開いてやります。ソレを村の衆は、楽しみにしているんだそうで、お海苔巻やごもくずしといったのを盤台へもらい溜めて、村中大喜びでした」。

 これはたんなる物見遊山ではない。信心の行為であるゆえに村人は一行を歓待したのだし、一行もまた純化された感情のなかで村人の厚意に応えたのだ。その信心とは別に仔細あるものではなかろう。

無事に嫁を迎えることのできる歳まで生きながらえたことへの報謝であり、さらに一家の今後の浄福をねがう心であったろう。しかしそれは日常を越える聖なるもの大いなるものの存在を感知する心でもあった。だからこそ胸も頭も晴れやかだったのである。

ここには、「巡礼姿の寺社参詣人たちは、俗の世界の往来においても、神仏と結縁した存在と認められ、俗界のもろもろの縁や絆と切れた存在とな」るという中世以来の伝統がまだ強力に働いている。お大師詣りの人びとと村人との交歓はこういう非日常的次元に成り立っていたのだ。
545p

渡辺京二『逝きし世の面影』第十三章 信仰と祭 12015年01月23日 00:00

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第十三章 信仰と祭


526p
 寺詣りをするのは下層階級と女性であることは、観察者に早くから認められていた。ティリーはおなじく一八五九年、箱館の寺院を観察したが、「役人とか地位のある男性の姿はめったに見られず、貧乏人と女が唯一の参詣者であるように思われた」。

一八五九年から翌年にかけて英国箱館領事をつとめたホジソンは言う。「私は十六ヵ月間、寺の近くに住んで、参詣人の大部分があらゆる階級の婦人と、子供と乞食であることに気がついた。儀式に参列する男子は主として商人、小売商人、下層社会の人々で、その数も大した数ではない。

その地位の上下を問わず双刀を帯びた武士が仏寺に詣でるのは、友人の葬式か、物故した英雄や主君の法要の時以外、きわめて稀である」。この事実は一八九〇年代になっても変らなかった。フィッシヤーは言う。「寺詣でをする者は、日本のどこでもきわめて貧しい住民や農民ばかりである」。

☆527p
 ベルクによれば「教養ある日本人は、本当は仏教とその僧侶を軽蔑している。……それは、下層階級と同じように僧侶のばかばかしいいかさま説法の対象となるのは、威信を下げると彼らが思っているからである」。

ハリスは一八五七年五月の日記に書く。「特別な宗教的参会を私はなにも見ない。僧侶や神宮、寺院、神社、像などのひじょうに多い国でありながら、日本ぐらい宗教上の問題に大いに無関心な国にいたことはないと、私は言わなければならない。この国の上層階級の者は、実際はみな無神論者であると私は信ずる」。

ヴィシェスラフツォフは役人に向って「どうしてお寺へ行かないのか」と尋ねたことがあった。答はこうだった。「わしが寺へ行くようになったりしたら、坊主たちは何をすりゃいいんだね。わしらみんなのために祈るのが坊主たちの仕事だ」。

一八九〇年代日本に滞在したドイツ人宣教師ムンツィンガーも「サムライ階級」を無神論者と断定している。それに対して「小市民、職人、農民、労働者、女性という大群は、今日に至るまでいつも宗教的であった」。武士階級が信仰に無関心でとくに僧侶を軽蔑するというのは、すでに一八一〇年代にゴローヴニンが認めた事実だった。

彼は「日本にも、ヨーロッパと同様に、自由思想家がいるし、或いはわが国より数が多いかも知れない。……無神論者や壊疑派は大変に多い」と記し、さらに「寺社なんかに一度も詣ったことはないといったり、宗徽上の儀式を潮笑したりして、それをいくらか自慢にしている日本人をわれわれは沢山知っている」と言っている。むろん彼は箱館や松前の獄舎にあったのだから、接触した日本人はほとんど武士階級だった。

528p
 バードは一八七八(明治十一)年の東北地方横断の際、久保田(現秋田市)の師範学校を見学したが、校長と教頭に対して生徒たちが宗教について教えられているかどうか尋ねると二人は「あからさまな軽蔑を示して笑った」「われわれには宗教はありません。あなたがた教養のおありの方々は、宗教はいつわりだとご存知のはずです」というのが教頭の答だった。

バードは言う。「破綻した虚構にもとづく帝位、人々から馬鹿にされながら、表面上は崇敬されている国家宗教、教養ある階扱にはびこる懐疑主義、下層階級の上にふんぞり返る無知な僧侶。頂点には強大な専制をそなえ、底辺には裸の人夫たちを従え、最高の信条はむき出しの物質主義であり、目標は物質的利益であって、改革し破壊し建設し、キリスト教文明の果実はいただくが、それを稔らせた木は拒否するひとつの帝国――いたるところでこういった対照と不調和が見られる」

しかし、知識階級の宗教心の欠如は明治という新時代の特徴なのではなかった。ヒュープナーの見た政府官吏の不敬な態度も、バードが聞いた教師の反宗教的見解も新時代の産物というよりむしろ、徳川というアンシァン・レジームからひき継いだ知識層の心性だったとみるべきである。むろんその底には儒学的合理主義と徹底した現世主義が存在した。
529p

☆531p
 全国を通じてどんな僻地山間にも見受けられる彪大な数の寺社と住民の関係、とくにその祭礼のありかたを一見したとき、彼らの喉を突いて出たのは「日本では宗教は娯楽だ」という叫びだった。

オールコックは言う。「宗教はどんな形態にせよ、国民の生活にあまり入りこんでおらず、上層の教育ある階級は多かれ少なかれ懐疑的で冷淡である。彼らの宗教儀式や寺院が大衆的な娯楽と混じりあい、それを助長するようにされている奇妙なやりかたこそ、私の確信を裏づける証拠のひとつである。

寺院の境内では芝居が演じられ、また射的場や市や茶屋が設けられ、花の展示、珍獣の見せ物、べーカー街のマダム・タッソー館のような人形の展示が行われる。こういった雑多な寄せ集めは、敬虔な感情や真面目な信仰とほとんど両立しがたい」。むろん彼は浅草のことを言っているのだ。

バードもっと簡潔に断定する。「私の知る限り、日本人は最も非宗教的な国民だ。巡礼はピクニックだし、宗教的祭礼は市である」。彼女は寺院が広大な敷地を所有していることから、「かつては東京にも、敬虔な精神が存在したに違いない」と言っている。しかし徳川期から、巡礼は物見遊山とセットされていたし、祭礼に市はつきものだった。

渡辺京二『逝きし世の面影』第十二章 生類とコスモス 22015年01月22日 00:00

『逝きし世の面影』渡辺京二/平凡社

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第十二章 生類とコスモス

508p
クララ・ホイットニーは商法講習所の教師として招かれた父とともに、一八七五年に来日したアメリ力人少女であるが(来日時十四歳)、七六年十一月に銀座が焼けた翌朝、さっそく火事場を見に出かけた。「この人たちが快活なのを見ると救われる思いだった。

笑ったり、しゃべったり、冗談を言ったり、タバコを吸ったり、食べたり飲んだり、お互いに助け合ったりして、大きな一つの家族のようだった。家や家庭から追い出されながら、それを茶化そうと努め、助け合っているのだ。涙に暮れている者は一人も見なかった」。

509p
 焼け跡の立ち直りの早さは、火事馴れした江戸っ子の伝統だった。シッドモアも言う。「焦土と化したばかりの場所に日本家屋が建て直されるスビードは驚嘆に値し、比類がない。大火のあと十二時間のうちに、小さな店の主人は元の所で商売を再開してしまうのだ」。

フレイザーによると「大工は地面が冷たくならないうちにもう仕事を始め」る。ジェフソン=エルマーストによると「日本人が、燃え尽した古い家々のあとに新しい家々を急造するやりかたは驚異だ。余燼はまだ燻っているのに、灰からよみがえったフェニックスのように新しい家が建てられているのが見受けられる。

火事が収まって二、三時間も経つとひとつの通りがまるごと再建されるのだ。一八六六年十一月の横浜大火では、こういったふうにひとつの通りがまるまる再建されたが、風向きが急に変って火が逆もどりし、新しく建った家々を呑みつくしてしまった」。

515p
 その滅び去った文明は、犬猫や鳥類をぺットとして飼育する文明だったのではない。彼らはぺットではなく、人間と苦楽をともにする仲間であり生をともにする同類だった。山川菊栄が書いている。

「どこの屋敷にも大きな樹が繁っているので、梟もいましたが、あの真白な軟い胸毛に濃い空色の長い尾羽、黒いびろうどの帽子をかぶったような可愛い小さないたずら者、鵲の兄弟の尾長もそれぞれの屋敷につきもののようになっていました。人なつこい鳥で子供たちのいい遊び相手でしたから、

近処の家では、小さい女の子と尾長を部屋に入れておくと、お守りの代りになるといっていたくらい。千世の家でも、桐の大木に巣をつくって、毎年夏になると、これを見て下さいといわんばかりさも自慢そうに可愛い雛を何羽もつれて親鳥が庭へ出て来て遊ぶのでした」。
516p

☆516p
 序章ですでに明らかにしえたと思うが、私の関心は日本論や日本人論にはない。ましてや日本人のアイデンティティなどに、私は興味はない。私の関心は近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある。この視角の差異は私にとって重要だ。

そしてその個性的な様態を示すひとつの文明が、私自身の属する近代の前提であるゆえに、それは私の想起の対象となるのだ。それにしても、狸が将軍の真似をしたり、猫が鯛や帯をくわえて来たりする文明が、いったい想起に値する文明といえるだろうか。

それは理性の光輝く西洋近代に照らすとき、ひとつの羞ずべき未開の文明ではないか。その問いに対しては、そうだ、明治以降の日本人はことごとくそう考えたのだといまは答えておこう。

517p
 明治の日本人知識人が己れの過去を差じ、全否定する人びとだったことについては、先にチェンバレンの証言をひいた。ベルツもまた、一八七六(明治四)年に来日してすぐ、おなじ事態に直面した。彼は故郷への手紙の中で書いている。

「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした(言葉そのまま!)』とわたしに言明したものがあるかと思うと、

またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと『われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです』と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑をうかべていましたが、

わたしが本心から興味をもっていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。……これら新日本の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい関心事なのです」。

517p
 私たちはここに描かれた明治初期の父祖の姿に同情をもってしかるべきだ。先述したようにエドウィン・アーノルドが日本を美の国、妖精の国と賞めたたえたとき、ここ二十数年の近代化の努力をあざ笑うものとして反発したわれわれの父祖に、私たちはなにがしかの共感をもつていい。

狐狸妖怪のたぐいを信じるのはたしかに「野蛮」であつた。そういう「野蛮」から脱して近代化への途を歩まないでは、日本が十九世紀末の国際社会で生き残ることはできなかつた以上、過去は忘れるに如くはなかつた。

518p
 しかしそのゴールとしての近代が、少なくとも"先進国"レベルにおいては踏破されつくした今日、過去の「野蛮」はまつたく異なる意味の文脈でよみがえらずにはいない。なるほど狐が人を化かし猫がものを言うというのはそれ自体としては蒙昧を意味する。

しかしそのように生類がひとと交流・交歓する心的世界は野蛮でもなければ蒙昧でもない。それはひとつの、生きるに値する世界だつた。ベルツはことにふれて日本人について「幸福な国民だ、幸福な気質」だと感じないではいられなかつた。

これは日本人論ではない。日本人をそうあらしめていた、おしよせる「文化革命」(ベルツの表現)の波にもかかわらずまだそうあらしめていた、ひとつの文明の残照について言われた言葉である。

補足:内容に該当する写真集を見つけました。参考に記載します。
美しき日本の面影 その11 生類との暮らし

渡辺京二『逝きし世の面影』第十二章 生類とコスモス 12015年01月21日 00:00

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第十二章 生類とコスモス


 モースは「私は(人力)車夫がいかに注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気づいた。今迄のところ、動物に対して癇癪を起したり、虐待したりするのを見たことがない」と述べ、このことは自分の限られた経験から言うのではなく、「この国に数年来住んでいる人々の証言に拠って」言うのだと断わっている。

モースはさらに次のように書く。「先日の朝、私は窓の下にいる犬に石をぶつけた。犬は自分の横を過ぎて行く石を見ただけで、恐怖の念はさらに示さなかった。そこでもう一つ石を投げると、今度は脚の間を抜けたが、それでも犬はただ不思議そうに石を見るだけで、平気な顔をしていた。

その後往来で別の犬に出くわしたので、わざわざしゃがんで石を拾い、犬めがけて投げたが、逃げもせず、私に向って牙をむき出しもせず、単に横を飛んで行く石を見つめるだけであった。私は子供の時から、犬というものは、人間が石を拾う動作をしただけでも後じさりをするか、逃出しかするということを見て来た。今ここに書いたような経験によると、日本人は猫や犬が顔を出しさえすれば石をぶつけたりしないのである」。
487p

502p
 ホジソンは伝聞として次のような話を披露している。ある外国人が窓の外を見ていると、「一人の哀れな男が干鳥足で歩いてきて寺院のそばの溝に落ちた」。その男のちょっと離れたところでは、小犬が水の中でもがいていた。

ちょうど、下級の僧侶が通りかかったので、てっきり溝に落ちた男を助けるものと思っていたところ、彼は「溝から犬を引っ張り出し、優しく背中をなでてやったが、不運な老人に対しては眼もかけなかった」。その外国人が坊主に対して憤慨したのはいうまでもない。ホジソンもその憤慨をともにする。

「僧侶は同胞の一人を救うのではなく、一匹の小犬の命を助けるために、進んで自分の指を汚ない溝につっこむのだ!」。しかし、これは言いがかりというものだろう。この僧侶は「哀れな男」の正体をよく知っていたのだ。昼日中から泥酔して溝に落ちる奴で、落ちたからといって命に関わりはしない。

そのうち自分で這いあがるのである。だが、小犬はちがう。放っておけば溺死する。ただ、この光景に対してホジソンたち欧米人がおぼえた違和感には、彼らなりのもっともさがある。彼らにとって、人間より動物の救助を優先するというのは、神の似姿たる人間に対する冒涜であって、倫理感の根本を破壊する行為だった。

彼らに動物愛護の精神がなかったというのではない。むろんそれは彼らによって言表されすぎるほど言表されていた。しかしそれは、あくまで人間に対して従属的な劣位にあるものへの、優者たる人間の崇高な道徳的責務であって、それと霊魂ある人間への同胞愛をごっちゃにするなど、神と信仰に対する許すべからざる冒漬にほかならなかった。

503p
 徳川期の日本人にとっても、動物はたしかに分別のない畜生だった。しかし同時に、彼らは自分たち人間をそれほど崇高で立派なものとは思っていなかった。人間は獣よりたしかに上の存在だろうけれど、キリスト教的秩序観の場合のように、それと質的に断絶してはいなかった。

草木国土悉皆成仏という言葉があらわすように、人間は鳥や獣とおなじく生きとし生けるものの仲間だったのである。宣教師ブラウンは一八六三(文久三)年、彼を訪ねて来た日本人とともに漢訳の『創世記』を読んだが、その日本人は、人間は神の最高の目的たる被造物であるというくだりに来ると、「何としたことだ、人間が地上の木や動物、その他あらゆるものよりすぐれたものであるとは」と叫んだとのことである。

504p
 彼らは、人間を特別に崇高視したり尊重したりすることを知らなかった。つまり彼らにとって、"ヒューマニズム"はまだ発見されていなかった。オールコックが「社会の連帯ということがいかに大切かということを忘れるおそれのある人は、日本にきて住めばよい。

ここでは、そういうことはまったく知られていない」と言うのはそのためである。彼は日本人の虚言癖に憤慨してこう書いているのだが、当時の日本では、虚言をいちいち神経症的に摘発して真実を追求せねば、社会の連帯は崩壊するなどと考えるものは、おそらくひとりもいなかった。

彼らは人間などいい加減なものだと知っていたし、それを知るのが人情を知ることだった。そして徳川期の社会は、そういう人情のわきまえという一種の連帯の上にこそ成立しえた社会だった。

505p
 なるほど日本人は普遍的ヒューマニズムを知らなかった。人間は神より霊魂を与えられた存在であり、だからこそ一人一人にかけがえのない価値があり、したがってひとりの悲惨も見過されてはならぬという、キリスト教的博愛を知らなかった。

だがそれは同時に、この世の万物のうち人間がひとり神から嘉されているという、まことに特殊な人間至上観を知らぬということを意味した。彼らの世界観では、なるほど人間はそれに様がつくほど尊いものではあるが、この世界における在りかたという点では、鳥や獣とかけ隔たった特権的地位をもつものではなかった。

鳥や獣には幸せもあれば不運もあった。人間もおなじことだった。世界内にあるということはよろこびとともに受苦を意味した。人間はその受苦を免れる特権を神から授けられてはいなかった。ヒューマニズムは人間を特別視する思想である。だから、種の絶滅に導くほど或る生きものを狩り立てることと矛盾しなかった。徳川期の日本人は、人間をそれほどありがたいもの、万物の上に君臨するものとは思っていなかった。

補足:内容に該当する写真集を見つけました。参考に記載します。
美しき日本の面影 その11 生類との暮らし