渡辺京二『日本近世の起源』152015年02月28日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/弓立社

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第八章 一向一揆の虚実

186p☆
 石山合戦はこのような政治・軍事権カとしての本願寺の姿勢が、全国統一をめざす信長と衝突したところから起った。神田千里のいうように、もともと信長には「本願寺教団全体を不倶戴天の敵」とみなす考えはなかった。元亀元(一五七〇)年、信長は三好三人衆と摂津で交戦中だったが、本願寺第十一世顕如(1548~92)は突如寺内の早鐘をつかせ、横合いから信長軍を攻撃した。信長は仰天したといわれる。

 すなわち信長との戦争は本願寺側の選択だった。神田はその理由として、三好三人衆が本願寺に好意的だったことと、信長がイエズス会宣教師に好意を示したことをあげている。だが、加賀領国や各地の寺内町などの政治的支配領域をもち、ちょうど中世のローマ教皇庁がそうであったように一個の現世的大領主であった本願寺は、畿内大領主団の一員として、信長の全国制覇の野望を深い危惧をもって見まもっていたはずだ。

信長はけっして浄土真宗の信仰自体を禁圧するものではない。ただ彼の姿勢には、宗教を政治・軍事から分離ぜしめようとする意図がはっきりと読みとれる。天下統一の暁に彼が、現実に政治・軍事的な支配領域をもちながら、宗教の名において国家権力の介入をこばむような特殊な権力の存在を許すはずがない。本願寺はさだめしそう読んだことだろう。

本願寺はすでに永禄六(一五六三)年の三河一向一揆を知っている。これは松平氏が領国内の一向宗寺院に課税しようとしたことから生じている。信長の同盟者たる家康は、真宗寺院の不輸不入の特権を認めない。信長も全国統一の過程で、かならずや本願寺の既得特権を否定するだろう。かくして本願寺は三好三人衆、六角氏、浅井氏など反信長勢カと連携し、全国の末寺・門徒に蜂起をうながすに至った。

 門徒には、信長に対して兵を挙げねばならぬ理由など何もなかった。信長は信仰の迫害者でぼなかったし、石山合戦の講和後本願寺を安堵し、門徒の信仰も認めている。信長の後継者の秀吉も同様である。神田が指摘するように、本願寺教団が全国に教線を拡大し、近世最大の教団となるのは石山合戦以後のことだ。門徒はただ、宗主が信長を法敵と認定し、「御恩報謝」のために参戦せよと指令したからこそ、勇躍して甲冑を身にまとったのである。彼らの信仰心には感動するしかないとしても、「御恩報謝」とはいったい何だろうか。

親鸞はなるぼど、「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報すべし 師主知識の恩徳もほねをくだきても謝すべし」とうたっている。だが、自分がおまえたちに救いを与えたのだから、そのご恩返しのためにおまえたちは、自分が法敵と認定したものに対しては、武器をとって命がけで戦うのだぞ、などと親鸞は言ったのだろうか。本願寺は仏恩報謝の意味をまったく歪曲して、現世におけるみずからの領主的支配を温存するために、門徒を戦場へかりたてたのである。

187p☆
 私は本願寺がたんに現世的な領主であるのならば、領民である門徒と一体化して反信長戦をたたかったことを、とやかく言うつもりはない。それは浅井や朝倉などの戦国大名もやったことであり、いわぼ当然の行動である。信長は歴史の進歩の側に立つ新勢力だが、反信長方は旧勢カだなどという、左翼的な進歩信仰に与する気もまた私にはない。ただ、本願寺が行使するいい気な教団論理を容認するにしのびないだけだ。

189p☆
 話をもどすと、そもそも教団の側から門徒に、仏恩に報謝ぜよと命ずるのは怪しからぬ話ではなかろうか。報謝行は信徒の自発としてあるべきで、親鸞の和讃もおのれの報謝の念をのべたものであり、信徒に向って「謝すべし」と命じているのではない。しかもこの報謝は、現実には本願寺の世俗権力を守るためのものである。

領主的地位の安泰のために、宗主とその祖先の恩義に命を投げ出してむくいよというのは、宗教者としては阿漕にすぎるのではないか。教団がなくなる危機というならともかく、この喧嘩は教団のほうから売った喧嘩であり、喧嘩に敗けたあとも、教団はなくなるどころか隆盛に向っているのだ。命をかけての報謝の意味はどこにあったのか。

 意味はあった、敗れたために教団は変質し、一揆の魂を失なったというのが、これまでの通説である。しかしこの通説は、神田千里によって正面から打破されるに至った。神田は石山戦争後も、本願寺の一揆体制は解体されず、秀吉からも一目置かれていたことを、史料にもとづいて立証している。

 本願寺門徒が石山合戦で示した熱誠は後世の語り草となった。つまり門徒からみれば、これはこれで立派な信仰の戦いだったというべきである。しかし、それを門徒の報謝行として、無条件に讃美してよいものだろうか。穎鸞や蓮如が説いたような高度な意味での報謝を、大方の門徒が正しく理解していたとするのは教団のたてまえ論にすぎず、また知識の徒である教学者の傲慢にほかならない。

民衆は教団の精緻な教義などに包摂される存在ではない。彼らは浄土と地獄を実体として信じていた。宗主のために死ねば浄土へ往生できると信じたればこそ、彼らはあのように力戦敢闘したのである。

 教団は護法の戦いで死ねば浄土へゆけると説いたことはないという。なぜなら、真宗の教義では往生は一念発起したときに定まっており、戦いで死ねば往生できると説くのば教義に反するからだ。しかし神田千里によれば、当時門徒のあいだでは、本願寺宗主と一族が「門徒を思いのままに往生させたり、地獄におとしたり」する力をもっているとひろく信じられていた。

そればかりではない。坊主も時と場合によって、仏敵との戦いで死ねば往生できると説いたことは、証如が天文一揆のさい出した感状に、「討死の方々は、極楽の往生をとげ候はんずる事疑いなく侯」と書いているのでもあきらかだ。

190p☆
 結局、一向一揆とぼ何だったのだろうか。それが農民の戦い、「百姓権力」などといえるものでないことはすでにあきらかだ。研究者のうちには、本願寺の方からみればそうではなかろうが、本願寺に託した民衆の願望の方に立てばそうなる、などと主張する人がいる。そんなことをいえぼ、天皇制だって民衆の権力だということになってしまう。

また、石山合戦で農民信徒が大勢討死したからそれは農民の戦いだなどという主張が通るなら、彪大な民衆が戦場に散った太平洋戦争も民衆の戦いと呼ばねばならぬ道理ではないか。民衆はいやいや戦場に駆りだされたのだ、などと言ってはならぬ。かの竹内好でさえ、開戦の日には胸が晴れるのを覚えたのだ。まして民衆においてをやである。

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