渡辺京二『近代の呪い』第二話 西洋化としての近代 22015年01月30日 00:00

『近代の呪い』渡辺京二/平凡社新書

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第二話 西洋化としての近代…岡倉天心は正しかったか

西洋近代の贈り物

071p
 人類が達成すべき諸価値を実現するものとして非西洋地域の人びと、とくにその知識層にとって、その魅惑ある諸価値とは何であったのでしょうか。それは何よりもまず人権という考えかたであったと思われます。人権というのは、地域共同社会、国家といった集団以前に、ひとりの人格つまり個人というものの存在を侵すべからざるものとみなす考えかたで、そこから、法以外によって逮捕投獄されることはないとか、平等とか自由という準則が生まれてくる。

もちろん非西洋地域においても、そういったものに近い価値を考究しようという動向は存在したわけですが、西洋ほどクリヤーにそういった価値が定立し、社会において実現すべき目標として設定されることはなかった。侵すべからざる個人というのは初めてそれと接触した非西洋人にとっては、実に鮮烈な観念であったはずです。

こういう観念は西洋近代において突如出現したというものではありません。宗教というものはキリスト教であれ仏教であれ、神の前仏の前の平等を説くものでありますから、個の生命の自覚は東洋でも西洋でも、近代以前にすでに発芽しております。しかし、それを人権・平等・自由という社会的価値として定着させたのはただ西洋近代のみであったのです。
072p

073p
 ヨーロッパ近代の人類への贈り物といえば、もうひとつ逃してはならぬものは近代科学とそれに関連するテクノロジーであります。もちろん近代科学はそのおそるべき成果とともに、憂慮すべき危険を人類にもたらしているわけでありますが、その点について今日は立ち入りません。

しかし科学とテクノロジーを除外した人類の将来というのは想像もつかぬことでありまして、やはり私たちは近代科学とその所産の上に立って、これからの人間の生き方を考えてゆかねばなりません。近代科学が非西洋地域の人びとにとって、人類に光をもたらす福音のように受けとられたのは、事実に即した世界の探究、さらには人間自体の探究というものがもつ目のくらむような射程のゆえだったのではないでしょうか。もちろん非西洋地域にも人間や自然についての考察は存在しました。

しかし、事実に則した論理的な探究がかくも広大な視野を拓くものであるとは、徳川期の日本人には想像もできなかったのではないでしょうか。彼らは蘭学という形で西洋の近代科学についてはかなり承知していて、それなりに心唆られていたのですが、単に自然についてではなく、社会についても人間についても、科学にインスパイアーされた探究が可能だと知ったのは、開国以後のことでした。西洋近代は何よりも知の領域において非西洋地域の人びとを魅了したといってよろしいでしょう。
074p

特殊を通じた普遍の創造

075p
 西洋の生んだ近代文明は西洋という精神風土と歴史を踏まえて成立しているのですから、様々なバイアスを負っております。そのことごとくを人類の普遍、世界的普遍とみなすわけにはいかないのは当然です。しかし、人類的な普遍というものは、数学のような純粋な論理、透明で公正な、民族や地域の色のつかない、ということは特殊地域的な文化の特性をおびることのない世界市民的見地から生み出されるものではないのです。

私は人類史は廻り持ちだと思うのです。農業や都市という人類普遍的価値は近東で生み出されました。哲学と悲劇と市民的徳性はギリシアの生んだものです。ホモサピエンスという生物の共有財産たる諸価値は、それぞれのバイアスをおびた地域的文明が廻り持ちで実現してきたのです。普遍が創造されたのは特殊を通じてであったのです。

西洋が生んだ近代モデルは、ラトゥーシュのいうように(それはすでにポランニーが指摘したことでしたが)、たとえば経済の異常な肥大というバイアスを負っているのでしょう。しかし、そういうバイアスを通してしか実現されない普遍的価値というものもあるのです。西洋の精神的特性に対してアジアの精神的特性を対置するといった、大アジア主義者の誤りはそこにあるのです。

076p
 今日掲げた標題については、近代が西洋化として実現されたのは、考えようでは大変奇異なことではあるけれども、それにはそうなる必然性があったということ、しかし、近代がその行程を終えて未知の時間に突入しつつある今日では、西洋の廻り持ちの任務はもう終わったということ、西洋近代のもたらした遺産をしっかり受け継ぎながら、西洋化を超えた人類的普遍がそれそれの地域で追求されるべきであること、……