渡辺京二『日本近世の起源』142015年02月27日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

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第八章 一向一揆の虚実

176p-弓立社

 もちろん、生じつつある剰余を貴族や守護大名に収奪されることを拒否して、わが手に保留しようとするのも立派な闘争であるだろう。しかしこの時代、一般農民はけっして収奪にあえいでいたのではない。彼らば惣村の指導者たる地侍にひきいられて、荘園領主から実質的に年貢軽減をかちとっていたのである。

荘園領主は年貢の減少あるいは杜絶によって深刻な打撃を受けていた。剰余は守護大名・国人・惣村の地侍によって分けどりされつつあった。加賀内乱の本質は、守護大名と国人・地侍の国一揆との得分をめぐる争いだったのだ。この時期には、本願寺門徒ばまだ惣村(郡)を制圧していなかった。彼らは国一揆の一翼として戦いに参加したのである。

178p
 第十世の宗主証如(1516~54)はなるぼど、加賀一国をおのれの「知行」とは認めなかった。だがそれは、幕府が加賀守護職と認定する本願寺に国役(臨時の賦課)をかけようとするのを拒否する遁辞にすぎない。自分は宗儀によって現世に所領を持つ身ではないから、国役の件は所領をもつものに申しつけてくれとは、なんと白々しい言い分だろう。

証如時代に本願寺は加賀国内に莫大な知行所をもっていた。そればかりではない。その加賀国内での領主権は、井上鋭夫によれば次のように整理することができる。①本願寺は国内での在地検断権の上に立つ最高裁判権をもつ。②本願寺衆が国内でもつ荘園の代官職・名主職は、宗主によって安堵・没収・補任される。③本所領家(荘園領主)の依頼に応じて年貢納付を在所に命じる。④郡・組・村から年貢・志納を徴収し、未進があれば懲戒する(門徒の志納は領主権とは関係がない。しかし加賀では志納もまた年貢化した)。⑤国人を旗本に任じ、将軍家被官に擢薦して和泉守などの公名を授ける。

このような守護権力以上の領主権を行使しながら、さらに厖大な貢租を収取・集積しながら、本願寺は領主にあらず、あくまで現世に望みをもたぬ宗教団体だというのである。まさに左手のしていることを右手は知らぬというわけだ。金沢御坊は誰が何のために設立したというのか。

179p
 宗主が生害(死刑)御勘気(破門)後生御免(免罪)などの手段で、教団内部の統制を強化したのは証如の時代である。だが宗主の裁判権はたんに教団内部だけではなく、加賀領国や寺内町では、一般住民に対しても行使された。藤木久志は本願寺本山の検断権を分析して、世法から自立したものではなく、「世俗の法規範に強く制約され」たものと結論づけている。

また彼は、加賀国の仕置において本願寺が、加賀の郡権力の在地的検断権を認めた上で、在地での紛争解決が行き詰まった場合に、調停にのりだす形で上級検断権を行使したことを指摘する。すなわちそのありかたは、法的視角から見るかぎり「成立期の戦国大名権力のありかたに酷似し」ているのである。

180p
 実如の弟実悟はのちになって永正一揆をふりかえり、「そのみぎり以来、当宗御門弟の坊主衆以下、具足かけ始めたることにて侯」と語っている。むろん本願寺派の坊主は文明年間から、すでに『具足懸け』を行なっていた。しかし、宗主の指令によって坊主・門徒が戦争行為を行なうようになったのは、永正以来だと実悟は言うのである。

井上鋭夫は、実如が政元援助に踏み切ったのは、北陸で「教団と守護勢カとの対抗関係が、もはやぬきさしならぬものになっていた」ためだと言う。本願寺はいまやたんなる教団ではなく、一定地域の政治経済的支配権をもち、それ自身の軍勢を有する一個の権門であった。その権門の地位を守るため、こののち宗主と本山は戦国大名とめまぐるしい連合と抗争を繰り返すことになる。それは百姓の一揆どころか、宗教一揆でさえもなかった。

184p
 長享一揆は、衰退にむかう本所・領家の荘園公領支配を前提として、守護方と一向衆方(門徒・非門徒連合)のどちらが収穫を刈りとるかという闘争だった。一向衆を主導するのが、小領主たる本願寺末寺、国人、地侍であることはすでに述べた。むろん惣村の乙名である地侍のもとには多数の平百姓が従っていた。

「あの急峻な城山をよじのぽり、乱杭・逆茂木を焼き払いつつ、富樫政親一党を滅した勇敢な門徒」と井上が讃美する一揆勢(門徒でないものも大勢いたはずだが)のうちに、平百姓が多く含まれていたことは想像にかたくない。しかし、彼らがいかに彼ら自身の願望によって行動したにせよ、現実には小領主たる末寺、れっきとした武士身分である国人、やがてのちには近世の領主・給人になり上がる地侍の指導と統制のもとにあるかぎり、この闘争を彼ら農民の闘争と規定するのはしょせん無理な話だろう。

 攻め滅ぼされた政親は,誇張はあろうけれど一万余人の兵を集めたといわれる。むろんその少なからぬ部分は百姓や下人だったのである。一揆方の平百姓は自発的に参戦したが、富樫方のそれば強制徴募されたのだなどと、見てきたようなことを言ってはなるまい。この時代の農民は様ざまのかたちと次元で領主と結ばれている。兵農はまだ分離されていない。利害や慣習や情誼にからめられて、守護方につく農民はあって当然なのだ。富樫氏はもともと北加賀富樫庄を本貫とする豪族で、根は現地におりていたのである。

 かくて出現した本願寺領国支配は重要な点で、戦国大名の領国支配に通底する性格を持ち、とうてい農民権力などと呼ぶことはできない。本願寺教団自身が本山―本寺―末寺―門徒の階層構造をもち、重層的な主従関係を内包していたことは、宗主と寺院間の安堵―奉公という関係、宗主に対する「殿様」「上様」といった呼称からして明白である。

もちろん門徒は宗主と主従関係をもつものではない。しかしそれは大名が領民と主従関係にないことと同様である。真宗は同朋教団といわれるが、「知識は『同行』を私財化し、門末は知識を崇めて弥陀如来に擬するようになる。それが本願寺宗主権のもとで認証され、宗主を絶対的な『知識』とする支配関係が成立するとき、本願寺教団として組織されるのである」。

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