渡辺京二『日本近世の起源』122015年02月25日 00:00

『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

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第七章 侍に成り上がる百姓


148p-弓立社

 朝尾が「小領主層」というのは、戦国期の村落において、村落の自治組織たる惣の指導者として頭角をあらわす地侍のことである。侍といっても、それはあくまでも村落内での身分にとどまり、当時の社会的身分編成からいえば凡下、すなわち百姓の一員にすぎない。

また一方、彼が「幕藩領主」というのは、幕藩制における将軍・大名だけではなく、彼らの家臣として知行を給せられたいわゆる給人をも指している。つまり朝尾は、徳川期の武士階級は大名から家臣にいたるまで、基本的には戦国期村落の上層農民が成り上ったものだと言っているのだ。これは衝撃的な発言ではなかろうか。

 その成り上った彼らが今度は、「かつての自己を生み出した階層・基盤を否定し」たというのは、検地、刀狩り、身分制法令等を通じて、農民の被支配者的地位を確定・強化し、農民上層部のこれ以上の成り上りを禁圧したことを言うのである。つまり自分自身が百姓の出身であり、百姓の自己解放・社会的上昇願望の担い手であったのに、支配者の地位についた途端、自分の出身母胎である百姓の解放と上昇を否定したのであるから、「自己否定」というわけなのである。

154p☆
 村の侍衆が戦国大名の被官となっていったのは、「かれらが加地子等の得分の集積者であり、その取得を保障する体制を必要とした」からである。一方、戦国大名の方にも彼らを家臣団にとりこむ痛切な必要があった。

勝俣鎮夫は言う。「彼らは荘園公領制下の名主の系譜をひく地主で、郷村の指導者であり、領主の支配を下からきりくずしていたのであり、彼らこそ戦国時代の転換、戦国の争乱をもたらした主体的階層であった。戦国大名の軍事力は彼らをいかに多く組織するかにかかっていたのであり、また国の支配の成否は彼らをとおしていかに郷村を把握していくかにかかっていたのである」。

 つまり十六世紀という時代は、惣村内で侍衆という階層に結集した有力農民が、戦国大名の家臣団に組みこまれ、さらには織豊家臣団・幕藩制家臣団の中核をなして行く一世紀だったのだ。

『三河物語』には、松平家八代当主、家康には父に当る広忠が鷹狩の途中、御前衆にも連なるようなれっきとした家臣の、折から田植最中の光景を見かける有名な挿話がある。

その時くだんの侍は「破れかたびらを着、高端折に端折りて、玉襷をあげて、我も早苗を背負いて、目づらまで土にして行く」有様だった。家臣はこのような姿を主人に見られたのを差じ、広忠は家臣にこのような苦労をさせる自分を責めたというのだが、これこそ後年天下をとるにいたる徳川家の家臣団が、このように自ら農業をいとなむ村の侍衆だったことの動かぬ証拠というべきだろう。

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つまり織豊期の軍隊は、彪大な数の雑兵をその必須の梶成要素とするに至っていた。雑兵は足軽、武士の奉公人、陣夫の三つに大別される。その供給源が村落だったのはいうまでもない。惣村の地侍層が領国大名の給人となり、騎乗の武士と化したとすれば、おなじ惣村の平百姓はあるいは足軽となり、あるいは給人に仕える又者すなわち奉公人となって村を出たのである。

高木は、地侍層が大名の被官として出陣するとき、その家父長制的農業経営に隷属していた下人・所従が、彼らの又者として従う場合が多かったものと想定している。

 まさに十六世紀は「渡奉公人の花時」だった。たとえ雑兵として大名軍団に組みいれられたとしても、戦場の功名によって一人前の武士となる例にはこと欠かなかった。太閤秀吉は尾張国中村の貧乏名主のせがれだった。

その秀吉の軍団について、東北の大名南部信直は、文禄二(一五九三)年、名護屋に参陣したときの見聞として、「上(上方すなわち秀吉軍団をさす)にては小者をも、主に奉公よくなし候へば、則ちひきあげ侍にせられ候。それを見し者共、我おとらじと奉公仕り候て、それをさせるべきからくりに候」と述べている。すなわち秀吉の軍隊は、朝尾直弘の表現に従えば「下剋上を組織した軍隊」なのであった。

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 徳川幕藩制社会は秀吉の遺業のうえに成り立っている。その秀吉が尾張の平百姓の出で、草履取りという雑兵として閲歴の一歩を踏み出したことの意味は重大であるはずだ。宣教師カブラルが「百姓でも内心王たらんと思わないようなものは一人もおらず、機会次第そうなろうとする」と言うのは、むろん誇張の言たるをまぬかれないが、当時の民心の一斑を察するに足る。この書簡が書かれたのは一五九六年であるから、彼の念頭にはむろん秀吉の例があっただろう。

もちろん・秀吉を好例とするように百姓が武将に成り上ったとしても、彼をその一員として迎えいれた武士団は土地領主としての長い伝統をもっている。朝尾直弘がかつて強調したように、百姓の「身分変更闘争」としての武士化は、彼自身が伝統的武士団のイデオロギーに同化することでもある。

しかし、この場合肝心なのは、織豊武士団と伝統的武士団との異質さであるだろう。頼朝や尊氏は源氏の棟梁であるからこそ、武士たちから主人と仰がれた。ところが織豊武士団は、尾張の一平民百姓であったものをおのれの棟梁に戴くことに、何の違和も疑問も感じなかったのである。

 つまり織豊武士団はそれほど百姓的要素に浸透されていた。織豊期の軍隊は百姓を組織した軍隊だった。たんに雑兵が百姓だったというだけではない。将校クラスの武士から、軍団の長たる大名にいたるまで、百姓から成り上った者は珍らしくとも何ともなかったのだ。

惣村は中世後期にいたって、数々のきびしい軍事的経験を積んできた。その期間は優に二百年にわたっている。勝俣の言うように、惣村の武力を把握できるかどうかは、すでに戦国大名時代から興亡の鍵をにぎる重大事だったのである。惣村の出自だからといってその地位を差別し、能力を発揮させないような軍隊が、全国争覇戦を勝ち抜けるはずがない。

雑兵から武士、武士から武将への道は閉されていなかった。その階梯をかけのぼるのは当人の器量と実力のしからしむるところで、たとえ反感や嫉妬にまといつかれることはあっても、そのこと自体はまさに賞讃に値したのである。

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 三浦周行が南山城国一揆に一種の「国民議会」的性質を認め、その可能性を高く評価したのは不当とはいえない。だが、それを民衆一般と武士階級一般との対立と見なしたのは、とうてい当を得たものではなかった。国人層はあきらかに武上階級であるし、「土民」とされる惣村の成員のあいだにも、前述のように地侍層が成立していた。しかも彼らの背後には管領細川政元がいたのである。

 戦国末期に伊賀を中心として成立した惣国一揆について、久留島典子は「この惣国一揆と織田政権の戦いを、一揆的に結合する百姓と、主従関係を再編強化することによって成立した領主勢力との最終的戦いと評価することは可能なのだろうか」と問うている。

伊賀惣国一揆でもっとも一般的なのは「土地に付いて自らの零細な得分権を保持しようと結合する、土豪・地侍と呼ばれる者たち」すなわち小領主層の一揆であったことを確認した上で、久留島は「支配者が目の前に見える支配ほど、それは過酷な様相を帯びたのではないかという疑いを禁じえない。その意味では惣国一揆を過大に評価することについては慎重でなければならない」と述べている。惣国一揆が領主支配に対する農民の闘いなどではありえないことを歴史学研究者自身が認めた発言といってよかろう。

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