渡辺京二『日本近世の起源』172015年03月02日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/弓立社

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第九章 領民が領主を選ぶ

198p☆
 領主は領民を保護できるがらこそ領主であって、その能力のないものは領主として失格だというのは、十六世紀にはひろく成立していた観念である。それはまさに、領主の資格の認定者としての領民が歴史の動向を左右するものとして浮上したことを意味し、その意味で徳川体制という日本近世を出現させた原動力であった。

 領主に対して、領内の平和と秩序を維持することを、その資格要件として求める思想は、佐藤進一によれば、十五世紀に武家支配者のなかに出現する。この時期、継嗣の決定にあたって、主人の意志より従者の協議決定のほうが優先する事態がひろく見られ、その場合重んじられたのは候補者の「器用」であった。

「将軍職も守護職も、さらに地頭御家人の所領といえども、職所有者の私物ではなく、職所有者にはそれぞれ日本国内・領国内・所領内の平和と秩序を維持する責任がある、したがって職所有者はその責任を全うする器用をもたねはならず、これを現実に保障するものはそれぞれの家臣の支持以体にない、と考えられている」。これは「鎌倉以来わが政治思想史に見え隠れにあらわれる徳治主義、およびこれと表裏をなす禅譲放伐の革命思想」に裏づけられだ、新しい「政治領域観」である。

200p
 戦国大名の地域主権国家の特徴は、まず領国の完結性である。戦国大名が定めた国内法には、自国民と他国民をはっきり区別する観念がみられる。つまり国と国民の観念が成立しているわけで、このようなとらえかたはすでに十五世紀の守護領国制のうちにはらまれ、国質という法習慣のうちに表われていた。国質とは、債務者が負債を返さない場合、債権者が債務者と同国人の身柄あるいは動産を差し押さえる行為で、先に紹介した郷質の拡大であり、国がぴとつの共同体とみなされていたことを示している。

戦国大名の国家は保護の代償として領民に国家の構成員としての自覚をうながし、国役(課税)、城普請役などの義務を課すことになる。普請とは「あまねく請ける」こと、すなわち国民の義務を意味する。そして検地は、まさに国民の権利と義務を確定するために行われたのである。

 このような動向の背景として、この頃の惣村に村民の資格について、「村籍」とでもいうべき観念・慣行が育っている事実を指摘せねばならない。例えば近江の今堀郷は十五世紀末に、七歳を過ぎて村人と親子関係を結んで人村した者は宮座のメンバーとして認めないという規定を設けており、「村人たる資格は第一にその村の村人として生まれ、幼いうちから村人として育つことであるという主張が、十五世紀後半以降の近江の惣村にはみられるようになる」。

久留島典子は「このような構成員の管理=『村籍』認定化の背景には、誰もが帰属先を持つべきであるという考え方、逆に帰属先を持たぬ人間は排除されるべきであるという考え方が、この時期の畿内近国の村々に広がってきたことがあるのではないか」と言う。だとすれは戦国大名の領民を「国民」として把握し、その権利と義務を確定してゆこうとする動きは、村落が村民の認定権をもつ動きと呼応しているわけであり、「国民」であれ「村民」であれ、帰属による有資格化は同時に構成員の管理強化だったことになるだろう。

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 しかもこの時代は、社会階層の移動が自由で激しかった。秀吉や蜂須賀小六の前身は問うまでもない。小西村長は薬種屋のせがれだった。越前北庄十八万石の領主となった堀久太郎秀政は、美濃茜部の久助という一向坊主だったと伝えられる。地侍や乎百姓が戦功によって、侍大将やひとかどの侍になりおおせた例は、枚挙にいとまないはずである。

都合の悪い領主を打倒することはあっても、領主という存在自体を打倒しなけれはならぬ衝迫は、どこを見ても出てこない。富樫政親を滅した一向一揆は、その大叔父富樫泰高を守護職に擁立し、やがて本願寺権力を実質的領主と仰いだ。

 領主階級そのものを廃絶して「百姓権力」を樹立するためには、全国惣村連合ともいうべき組織体とその指導部が成立していなければならない。そんなものは成立しようがなかったし、それが成立していないところで領主がいなくなれは、世の中は収拾のつかぬアナーキーに舞いもどるだけだろう。そんなことを百姓は望んではいなかった。彼らには領主―領民関係を廃絶するような発想は存在せず、ただその関係をより望ましいものにしたい願望があっただけだった。

 徳川幕藩制は百姓のその願望に曲りなりにも応えたからこそ、二百六十余年の命脈を保った。それは頭から爪先きまで武装した武家権力が、武装解除された百姓・町人を威圧することによって維持された「兵営国家」なのではない。それは最近朝尾直弘がことあるごとに強調するように、武家領主階級と農民・町人とのあいだに新しく契約が交わされることによって成立した、それなりにリーズナブルな国家であり社会であるのだ。

 そのことは在地の現実を見れはあきらかである。地侍はことごとく武家の被官となって村を出て行ったわけではない。むしろその多くが村落に残ったのであり、そのことから、「かれらがいかに外の領主世界に引かれるところ少なく、村の成員たることに固執していたかがわかる」と池上裕子は主張する。

兵農分離後においても、彼らは村の侍として下人・小百姓を従え、隠然たる勢力を維持していた。彼らが幕藩制村落の庄屋となってゆくのは、荘園制下における沙汰人・番頭として、村内の事情、年貢徴収の実務に通暁していたからであるとともに、そのような村内での実力によるものである。幕藩領主は年貢・夫役の徴収を村請制に頼ったが、このような村の待たちなしには村請制は、少くとも幕藩制成立期には存立不可能であった。

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