渡辺京二『逝きし世の面影』第十一章 風景とコスモス 22015年01月20日 00:00

『逝きし世の面影』渡辺京二/平凡社

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第十一章 風景とコスモス

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 川添登によれば、フォーチュンの「訪れたのは団子坂から染井までであり、その背後の巣鴨では、植木・花卉の栽培が、さらに広大な地域にわたって展開しているのを知らなかった。染井・巣鴨は、花卉・植木栽培の文字通り、世界最大のセンターだったのである」。

徳川期の花卉栽培文化が当時の世界をリードした淵源は、川添によると、大名や旗本の屋敷あるいは寺社に庭園が設けられたことにあったらしい。江戸には、大名屋敷に付随する庭園だけでも千を数え、そのうち後楽園、六義園クラスのものが三百あったという。

それに旗本屋敷や寺社のそれを加えれば、江戸の庭園の数は数千にのぼっただろう。リンダウが「数多くの公園や庭園がこの江戸を埋め尽しているので、遠くから見ると、無限に広がる一つの公園の感を与えてくれる」と言ったのも、思えばもっともな話だ。庭園はむろん観賞用植物を必要とする。

その必要にこたえて江戸北郊に園芸センターが展開したのは先述の通りだ。江戸の花卉文化は先述の吉宗将軍の事例もふくめて、武士階級のリードするところだった。第一、武士は閑だった。

大久保のつつじが染井のそれを抜いて名を売ったのも、同地の鉄砲同心たちが閑にまかせてその栽培に精出した桔果だというし、有名な肥後六花を生み出したのも、細川藩士が桔成した花連である。一方、寺社の貢献も無視できない。フォーチユンは神奈川周辺で珍種をあさるさい、標的をお寺に定めた。彼が念願のアスナロの種子を採取できたのも、そういう寺のひとつにおいてだった。
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 だが花卉に対する好尚はやがて中流階級に、そして市井の庶民にひろがった。「花暦」に従って名所や寺社の四季の花々にむらがり寄るのが、徳川期の日本人の習性になった。こういう花見の習性はけっして人類普遍のものであるわけではなくて、あくまで徳川期における花卉文化の大衆への浸透の結果生れた特殊な様相なのだと中尾は言っている。

アンベールが「果樹園の花盛りには、町人や画家や学生たちが、田園の詩を味わい……都会の労働と歓楽を逃れて、一日や数日は、できたら森蔭や郊外の茶屋に隠れる」と述べているのは、そういう人びとの花暦への熱狂が、同時に文化的な風流でもあった事実を指しているのだ。

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 しかも当時の日本の花と樹木の文化は、けっして武士を初めとする都市の上中流層や植木屋のみによって担われていたのではない。神奈川宿近くの農村について、フォーチュンは書いている。

「馬に乗って進んでゆくと、住み心地のよさそうな小さな郊外住宅や農家や小屋を通りすぎるが、それには小さな前庭がついていて、その地方で好まれる花々がニ、三種類植えこんである。日本人の性格の注目すべき特徴は、もっとも下層の階級にいたるまで、万人が生れつき花を愛し、二、三の気に人った植物を育てるのに、気晴らしと純粋なよろこびの源泉を見出していることだ。

仮にこのことが一国民の文明の高さのしるしだとするならば、日本の下層階級はわが国のおなじ階級とくらべるとき、大変有利な評価を受けることになる」
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 むろんこの四季の風景は、花鳥諷詠という悪名高い言葉場示すように、文明によって飼い馴らされた自然であり世界である。だが人間は裸形の自然の中で生きるものではない。また、混沌としての現実世界をありのままに認知し、その中に定位しうる存在でもない。

そもそもありのままの実存とは、人間にとって認知を超えたものである。人間は自然=世界をかならずひとつの意味のあるコスモスとして、人間化して生きるのである。そして、混沌たる世界にひとつの意味ある枠組みを与える作用こそ、われわれは文明と呼ぶ。

それ自体無意味な世界を意味あるコスモスとして再構成するのが人間の宿命なのだ。問題はその再構成された世界が、人間に生きるに値する一生を保障するかどうかであろう。

徳川後期の文明は世界を四季の風景の循環として編成し、その循環に富貴貧賤を問わず人びとの生を組み入れ、その循環の年々の繰り返しのうちに、生のよろこびと断念を自覚させ、生の完結へと導くものだった。そしてまた、人びとは花や雪や鳥虫や月によって心を結び通わせあった。
470p

474p
 欧米人が讃美したいわゆる日本的景観は、深山幽谷のそれを除いて、日本人の自然との交互作用、つまりはその暮らしのありかたが形成したものだ。ましてや景観の一部としての屋根舟や帆掛け舟、船頭の鉢巻、清らかな川原、そして茅葺屋根やその上に咲くいちはつに至ってはいうまでもない。

つまり日本的な自然美というものは、地形的な景観としてもひとつの文明の産物であるのみならず、自然が四季の景物として意識のなかで馴致されたという意味でも、文明が構築したコスモスだったのである。

そして徳川後期の日本人は、そのコスモスのなかで生の充溢を味わい、宇宙的な時の循環を個人の生のうちに内部化した。そして、自然に対して意識を開き、万物との照応を自覚することによって生れた生の充溢は、社会の次元においても、人びとのあいだにつよい調和と共感の感情を育てたのである。そしてその調和と共感は、たんに人間どうしの間にとどまるものではなかった。それは生きとし生けるものに対して拡張されたのである。
475p

渡辺京二『逝きし世の面影』第十一章 風景とコスモス 12015年01月19日 00:00

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第十一章 風景とコスモス


429p
 チェンバレンにとって、日本の魅力は「下層階級の市井の生活」を初めとして数々あったけれど、中でも「心を奪われる」のは自然の美しい景観だった。「苔むす神社に影を落している巨大な杉の樹。言いようもないほど優美な幾何学的曲線を描く円錐形の火山。

油断なく飛び石伝いに渡らなければならない渓流。蜘蛛の糸のように伸びていて一歩踏むごとに震える吊り橋が懸かる深い谷川。野の花が絨緞のように敷きつめ、鶯や雲雀の啼き声が響き渡り、微風の吹く高原。霧が白い半透明の花輪となって渦巻く夏山。

深紅の紅葉と深緑が交錯する谷間。その谷間から上を見上げれば、高く聳える岩壁は鋭い鋸歯状の線を描き、青空をよぎっている。――確かに日本の美しさは、数え上げれば堂々たる大冊の目録となるであろう」

438p
 一八六三(文久三)年四月、平戸を経て瀬戸内へ入ったアンベールの次の記述によれば、日本が鳥の楽園であるのは、海上から一見してあきらかだった。「日本群島のもっとも特色ある風景の一つは、莫大な数の鳥類で、鳴声や羽ばたききで騒ぎ立てている。

ここでは鷲や禿鷹が岩の上を飛び回っているかと思うと、かしこでは鶴が杉林から悠然と飛び立っている。はるか彼方では、鵜や鷺が葦の茂みや潮のさしこむ静かな入江で魚をあさっている。至る所で雁や鴨が秩序正しい列をつくって、波の上を飛んだり空を渡ったりしており、鴎や海燕が岬や暗礁のあたりを群をなして飛び交っている」


440p
 ブスケは一八七二(明治五)年に来日したのだが、東京と名を変えたばかりのこの都市に対する彼の初印象は次のようなものだった。「ひとは少なくとも一個の壮麗な都、巨大な門、壮大な様式の町並や橋を見出すものと期待する。

しかし、東海道を通ってここに着き、汚い車を傭って乗り、木造の低いそして古くなって黒ずんだ家が立ち並び、時々空地を通りぬける汚い不揃いの道を走り廻るとき……何という裏切られた気持になることだろうか」。つまり彼にも江戸は「はてしない木造の村」に見えたのである。

しかし、都市と田園を峻別し、モニュメンタルな壮麗さを都市の指標とするような都市概念からひとたび自由になれば、江戸の都市としての特異な魅力はいやでも見えて来ずにはいなかった。幻滅的な第一印象を述べたあとで、ブスケは自問自答する。

「だが住みつくと、この都会からなかなか抜け出せなくなるのはどういうわけだろうか。そこであちこち歩き回っても倦きないのはどういうわけだろうか。それは、この街が貧しい小さな家の単調でありふれた外観の下に、限りない変化を与えられているからであり、また、そこで人に知られぬ絵のような場所を毎日見つけることができるからである」。緑の丘陵と谷間の水流、庭園、寺社、森、野原――つまり「江戸の美は田園的なもの」なのだ。
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 「数多くの公園や庭園がこの江戸を埋めつくしているので、遠くから見ると、無限に広がる一つの公園の感を与える」と書くのはリンダウである。「江戸は庭園の町である。それはどこまで見ても際限のない、海に洗われ、大きな川に横切られ、別荘で飾られた町である。

いくつかの界隈には、規則的な通りを作っている家々の途切れることのない連続が見られる。しかし目を移すたびごとに、寺院や庭園や屋敷が町並の統一性を壊しにやってきて、江戸を世界で最も個性的なものにし、初めて見た時旅行者に、最も強く最も心地よい驚きを生み出させるあの特異な様相を作り出しているのである」。
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447p
 オールコックが江戸について、「ヨーロッパには、これほど多くのまつたく独特のすばらしい容貌を見せる首都はない」と述べたことの意味を、ようやくわれわれは理解する。江戸はパリやローマや、あるいはロンドンやウィーンのような、大廈高楼を連ねた壮麗な都ではなかった。

江戸にそういうものを求めた観察者は、残らず深い失望を味わった。江戸の独自性は都市が田園によって浸透されていることにあった。だから欧米人たちは江戸と郊外の境い目がわからなかったのである。都市はそれと気づかぬうちに田園に移調しているのだった。

しかも重要なのは、そのように内包され、あるいはなだらかに移調する田園が、けっして農村ではなく、あくまで都市のトーンを保っていたという事実だ。オリファントが「文明の様子を失なわなかった」と言うのは、そのことを指している。つまり江戸は、けっして「大きな村」なのではなかった。

それはあくまで、ユーニークな田園都市だった。田園化された都市であると同時に、都市化された田園だった。これは当時、少なくともヨーロッパにも中国にも、あるいはイスラム圏にも存在しない独特な都市のコンセプトだった。

後年、近代化された日本人は、東京を「大きな村」ないし村の集合体として恥じるようになるが、幕末に来訪した欧米人はかえって、この都市コンセプトのユーニークさを正確に認識し、感動をかくさなかったのである。すなわち、このような特異な都市のありかたこそ、当時の日本が、世界に対して個性あるメッセージを発信する能力をもつ、一個の文明を築きあげていたことの証明なのだった。
448p

450p
「日本人は何と自然を熱愛しているのだろう。何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争のせず、穏やかな感覚と慎ましやかな物質的満足に満ちた生活を何と上手に組み立てることを知っているのだろう」という感嘆はギメだけのものではなかった。

渡辺京二『逝きし世の面影』第十章 子どもの楽園2015年01月18日 00:00

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第十章 子どもの楽園


390p
 子どもが馬や乗物をよけないのは、ネットーによれば「大人からだいじにされることに慣れている」からである。彼は言う。「日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深く取り扱われている国は少なく、ここでは小さな、ませた、小髷をつけた子供たちが結構家族全体の暴君になっている」。

ブスケにも日本の「子供たちは、他のどこでより甘やかされ、おもねられている」ように見えた。モースは言う。「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。

二コニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」。いちいち引用は控えるが、彼は『日本その日その日』において、この見解を文字通り随所で「くりかえし」ている。

 イザベラ・バードは明治十一年の日光での見聞として次のように書いている。「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、絶えず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。

他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている。毎朝六時ごろ、十二人か十四人の男たちが低い塀に腰を下ろして、それぞれ自分の腕に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。

その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題になっているらしい」。日本人の子どもへの愛は、ほとんど、「子ども崇拝」の域に達している。ように見えた。
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393p
ツュンベリは「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」と書いている。「船でも」というのは参府旅行中の船旅を言っているのである。またフィッセルも「日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」と述べている。

 このことは彼らのある者の眼には、親としての責任を放棄した放任やあまやかしと映ることがあった。しかし一方、カッテンディーケにはそれがルソー風の自由教育に見えたし、オールコックは「イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子供たちはもっている」と感じた。「すなわち日本の子供たちは自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることがない」。

397p
 子どもは大人に見守られながら、彼らだけの独自な世界をもっていた。一八一二(文化九)年、日向国佐土原瀋の修験者野田成亮は、全国の霊山を訪ねる修行の途上、肥後国日奈久での見聞を次のように記している。

「当所に子供地蔵といふあり。木像にて高さ一尺一寸ばかりあり。子供、遊び道具にす。夏分どもには、地蔵さんも暑からうとて川の中へ流し、冬は炬燵に人れる。方々持ち廻り、田の中などへ持ち込めり。しかりといへども障りなし。大人ども叱りなどすれば、たちまち地蔵の機嫌をそこなひ障りあり」。

これは局地の奇習ではない。大人とは異なる文法をもつ子どもの世界を、自立したものとして認める文明のありかたがここに露頭しているのだ。徳川期の文明はこのように、大人と子どものそれぞれの世界の境界に、特異な分割線を引く文明だったのである。そのような慣行は明治の中期になってもまだ死滅してはいなかった。

410p
グリフィスは横浜に上陸して初めて日木の子どもを見たとき、「何とかわいい子供。まるまると肥え、ばら色の肌、きらきらした眼」という感想を持った。またスエンソンは「どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる」と感じた。彼らが「幸せに育っているのはすぐに分かっ」た。「子供は大勢いるが、明るく朗らかで、色とりどりの着物を着て、まるで花束をふりまいたようだ。

……彼らと親しくなると、とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないのに気づく」と言うのはパーマーである。母親とおなじ振袖の着物を着てよちよち歩きをしている子どもほど、「ものやわらかでかわいらしいものはない」とシッドモアは言う。

日本についてすこぶる辛口な本を書いたムンツィンガーも「私は日本人など嫌いなョーロッパ人を沢山知っている。しかし日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない」と言っている。

チェンバレンの意見では、「日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している」のは「子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯」だった。日本の「赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである」。モラ工スによると、日本の子どもは「世界で一等可愛いい子供」だった。
411p

417p
 日本人はルースに、いったいどんな道徳的悪習とどんな嘘を教えたというのか。エヴァの子守り婆さんは、まさか彼女に喫煙を仕込んだのではあるまいが、少なくともそれを助長した形跡はある。日本人の大人は子どもを自分たちの仲間に加え、自分たちに許される程度の冗談や嘘や喫煙や飲酒等のたのしみのおこぼれを、子どもに振舞うことをけっして罪悪とは考えていなかった。

すなわち当時の日本人には、大人の不純な世界から隔離すべき"純真な子ども"という観念は、まだ知られていなかったのだ。むろんそういう観念は西洋近代の産物である。バードは偏見の少ないすぐれた観察者であるけれども、彼女の使用する「道徳的堕落」とか「嘘」という用語には、西洋近代において成立する神経症的オブセッションが色濃くまつわっている。ちなみに、ルースの父親ファイソンは一八七四年に来日し、新潟で七年間伝道に従事した英国人宣教師である。

補足:内容に該当する写真集を見つけました。参考に記載します。
美しき日本の面影 その5 子供の情景

渡辺京二『逝きし世の面影』第八章 裸体と性 22015年01月16日 00:00

『逝きし世の面影』渡辺京二/平凡社

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第八章 裸体と性

320p
当時の日本人には、男女間の性的牽引を精神的な愛に昇華させる、キリスト教的な観念は知られていなかった。日本人は愛によっては結婚しないというのは、欧米人のあいだに広く流布された考えだった。

たとえばヴェルナーは述べている。「わたしが日本人の精神生活について知りえたところによれば、愛情が結婚の動機になることはまったくないか、あるいはめったにはない。そこでしばしば主婦や娘にとって、愛情とは未知の感清であるかのような印象を受ける。

わたしは確かに両親が子どもたちを愛撫し、また子どもたちが両親になついている光景を見てきたが、夫婦が愛し合っている様子を一度も見たことがない。神奈川や長崎で長年日本女性と夫婦生活をし、この問題について判断を下しうるヨーロッパ人たちも、日本女牲は言葉の高貴な意味における愛をまったく知らないと考えている」。

 たしかに日本人は西欧的な愛、「言葉の高貴な意味における愛」を知らなかった。ヴェルナーのいうように、「性愛が高貴な刺激、洗練された感情をもたらすのは、教育、高度の教養、立法ならびに宗教の結果である」。一言でいうならキリスト教文化の結果である。「真の愛情は洗練された差恥の念なくしては考えられない。

なんらかの理由から差恥の念をもっていない娘は、愛を感じることもないし、また愛を与えることもできない。さらに勝手気ままに多くの妻をめとることを許している日本の婚姻法が、愛をめざめさすことはできない」とヴェルナーはいうが、男女の性的結合は「言葉の高貴な意味における愛」であるべきだとするキリスト教文化の見地に立つならば、彼の言うところはいちいちもっともということになるだろう。

にもかかわらず、そのようなキリスト教的な異性愛の観念が、十九世紀後半から二十世紀前半にかけての西欧文学において、いかに多くの「愛」からの脱走者を生んだかということを想いやれば、われわれはこの問題についておのずと違った断面を見出すこともできる。
321p

☆321p
 当時の日本人にとって、男女とは相互に惚れ合うものだった。つまり両者の関係を規定するのは性的結合だった。むろん性的結合は相互の情愛を生み、家庭的義務を生じさせた。

夫婦関係は家族的結合の基軸であるから、「言葉の高貴な意味における愛」などという、いつまで永続可能かわからぬような観念にその保証を求めるわけにはいかなかった。さまざまな葛藤にみちた夫婦の絆を保つのは、人情にもとづく妥協と許しあいだったが、その情愛を保証するものこそ性生活だったのである。

当時の日本人は異性間の関係をそうわきまえる点で、徹底した下世話なリアリストだった。だから結婚も性も、彼らにとっては自然な人情にもとづく気楽で気易いものとなった。性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなものであり、従って羞じるに及ばないものだった。

「弁慶や小町は馬鹿だなァ嬶(かか)ァ」という有名なバレ句に見るように、男女の営みはこの世の一番の楽しみとされていた。そしてその営みは一方で、おおらかな笑いを誘うものでもあった。徳川期の春本は、性を男女和合と笑いという側面でとらえきっている。

322p
 だが、西欧流の高貴な愛の観念と徳川期日本人の性意識は、いいかえるとハリス的な愛のリゴリズムと幕吏のシニシズムすれすれのリアリズムは、相討ちみたいなところがあって、どちらが思想的に優位であるか判定することはできない。

この問題は伊藤整が名論文『近代日本における「愛」の虚偽』で論じたところで、いまは深入りを避けたいが、性を精神的な憧れや愛に昇華させる志向が、徳川期の社会にまったくといっていいほど欠落していたことが、日本人の性に対する態度になにか野卑で低俗な印象を帯びさせているという事実には、やはり目をつぶるわけにはいかない。

333p
 イザベラ・バードは伊勢山田を訪ねて、外宮と内宮を結ぶ道が三マイルにわたって女郎屋を連ねていることに苦痛すら覚えた。彼女が「この国では悪徳と宗教が同盟を結んでいるようにみえる」こと、「巡礼地の神社がほとんどつねに女郎屋で囲まれている」ことについて、突きこんだ考察を試みた形跡はない。

巡礼地が女郎屋で囲まれているのは、むろん精進落しが慣習になっているからである。買春はうしろ暗くも薄汚いものでもなかった。それと連動して売春もまた明るかったのである。性は生命のよみがえりと豊鏡の儀式であった。まさしく売春はこの国では宗教と深い関連をもっていた。

その関連をたどってゆけば、われわれは古代の幽暗に達するだろう。外国人観察者が見たのは近代的売春の概念によってけっして捉えられることのない、性の古層の遺存だったというべきである。
334p

渡辺京二『逝きし世の面影』第八章 裸体と性 12015年01月15日 00:00


『逝きし世の面影』渡辺京二/平凡社

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第八章 裸体と性

 ヴェルナーもティリーとおなじく寛容派だ。彼は公衆浴場で「男、女、主婦、老人、若い娘、青少年が混浴するが、だれも当惑した様子がな」く、「主婦は三助に奉仕され体を洗ってもらうが、そのさい彼女たちは海水パンツをはいているわけでもバスローブをまとっているわけでもない」ことに、当然道徳的疑念を抱かずにはおれなかった。

「教育があり上品でもある」日本人に、どうしてこういう差恥心の欠如がみられるのか。差恥とは気候によって左右される概念なのだ。暑い日本の夏に、人びとが裸体になるのは無理もない。

「二グロ、インディアン、マレー人については」、その裸体姿をべつに不思議がりはしないわれわれが、日本人の裸体姿からショックを受けるのは、日本人が「精神と肉体の両面でわれわれに近く」「交際する形式からしてもいかにもヨーロッパ風であり、一般に洗練され、祈り目正しい態度」をとるからだ。日本人がわれわれとは「慎しみ深さや羞恥について別種の観念をもっている」ことがわかれば「異様で不愉快な衝撃」を受けないですむ。
302p

302p
 しかしこの問題で、正面きって日本人を弁護したのはリンダウである。彼は言う。「風俗の退廃と差恥心の欠如との間には大きな違いがある。子供は恥を知らない。だからといって恥知らずではない。差恥心とは、ルソーが正当に言っているように『社会制度』なのである。

……各々の人種はその道徳教育において、そしてその習慣において、自分達の礼儀に適っている、あるいはそうではないと思われることで、規準を作ってきているのである。率直に言って、自分の祖国ににおいて、自分がその中で育てられた社会的約束を何一つ犯していない個人を、恥知らず者呼ばわりするべきでなかろう。

この上なく繊細で厳格な日本人でも、人の通る玄関先で娘さんが行水しているのを見ても、不快には思わない。風呂に入るために銭湯に集まるどんな年齢の男女も、恥ずかしい行為をしているとはいまだに思った事がないのである」。なんとみごとな文化相対主義であることか。

303p
 スエンソンも次のように日本女性の身体意識を弁護してくれている。「日本女性は慎しみ深さを欠いているとずいぶん非難されているが、西欧人の視点から見た場合、その欠け具合は並大抵ではない。とはいえそれは、本当に倫理的な意味での不道徳というよりはむしろ、ごく自然な稚拙さによる。

……日本女性が自分の身体の長所をさらけ出す機会を進んで求めるような真似を決してしないことは、覚えておいてよいだろう。風呂を浴びるとか化粧をするとかの自然な行為をする時に限って人目をはばからないだけなのである。……

私見では、慎みを欠いているという非難はむしろ、それら裸体の光景を避けるかわりにしげしげと見に通って行き、野卑な視線で眺めては、これはみだらだ、叱責すべきだと恥知らずにも非難している外国人のほうに向けられるべきであると思う」。
303p

304p
 リンダウがいうように、日本の女に裸に対する差恥心が薄いのは、彼女らが恥知らずということではなかった。そのことをよく理解したのは、何ごとにつけ日本の事象に讃嘆を惜しまなかったギメである。彼は言う。「無作法を意識せず、ショッキングであることを知らない、罪以前のイヴたちが相手にされていたのだ。

そこで紳士たちの好奇心にかられたまなざしと、(外国人の)レディたちのおびえた叫び声が、今まで知られていなかった罪を明かしているのである。私ははっきりと言う。差恥心は一つの悪習である、と。日本人はそれを持っていなかった。私たちがそれを彼らに与えるのだ」。

312p
 徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。それはキリスト教文化との決定的な達いてある。もちろん、人間の肉体ことに女性のそれは強力な性的表象でありうる、久米の仙人が川で洗濯している女のふくらはぎを見て天から墜落したという説話をもつ日本人は、もとよりそのことを知っていた。

だがそれは一種の笑話であった。そこで強調されているのは罪ではく、女というものの魅力だった、徳川期の文化は女のからだの魅力を抑圧することはせず、むしろそれを開放した、だからそれは、性的表象としてはかえって威力を失った。混浴と人前での裸体という習俗は、当時の日本人の淫猥さを示す徴しではなく、徳川期の社会がいかに開放的であり親和的であったかということの徴しとして読まれなければならない。

313p
 アーノルドが「日本人は肉体をいささかも恥じていない」というように、彼らの大らかな身体意識は明治二十年代まで、少なくとも庶民の間には保たれていた。モラエスによると「三十年ほど前までは、都会の銭湯の広々とした浴槽は男女とも一つだった。

その後、外国人の道学先生流の非難によって、浴槽の間に仕切りができて、一方では男が、片方では女が入浴するようになった。さらにその後、外国人の道学流の非難が止まないので、壁で遮断して、完全に男女を分けてしまった」。モラエスが三十年前と言っているのがいつか、あいまいであるけれど、政府のたびたびの取締りにもかかわらず、明治二十二年頃、混浴はまだ完全になくなってはいなかった。