渡辺京二『日本近世の起源』162015年03月01日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643

第八章 一向一揆の虚実

191p☆-弓立社

 金龍静は「村中人々、下女以下まで、一衣をぬぎ、上げ申し侯。煙硝、鉛の代かえに成し申し侯」という当時の書状を援用し、「権力に掌握されきらない村や町の武力財力が主体的・意識的に結集しえた場合、一体どこまで戦いうるのかという、史上空前の試み」と評価する。献金で飛行機や大砲を作るなどは、戦時中の日本国民もやったことである。私など少年の日、それが武器として再生されるというので、学校のゆき帰り、眼を皿にして道路上の鉄屑を拾い集めたものだ。

しかも本願寺の指令を受けた村々や寺内町を、権力にいまだ掌握されきっていないものとするのは奇怪である。もとよりそれは、本願寺領主権力によってすでに掌握されていた。実はこの書状の前段には、金龍は省いているが「玉薬御用意のため、上様を始め、御小袖を脱がせられ、そのほか御内人」という一句がちゃんとついており、しかもこの書状自体、本願寺家臣による寄進の催促状なのだ。

おいたわしくも上様まで小袖を脱がれ、村の下女だってたった一枚の衣を脱いでいる。だからもっと寄進しなさい、というのがこの書状の趣旨なのである。上でもやっているから下でもやれと言っているのであって、どうしてこれが村々の主体的結集を示す文書でありえよう。

193p
 一向衆の軍事的実力は本願寺教団の教義と密接な関わりがある。それは阿弥陀仏という絶対神以外の諸仏・諸神を拝することを認めない一神教であり、しかも往生すでに決定という予定論的構造をもつ点で、信徒に絶対的な確信を与えるものである。

一五七九年から八二年まで日本教区を巡察したイエズス会士ヴァリニャーノは、日本の仏僧が「いかに罪を犯そうとも、阿弥陀や釈迦の名を唱え、その功徳を確信さえすれば、その罪はことごとく浄められる。したがってその他の贖罪等はなんらする必要がない。それは阿弥陀や釈迦が人間のために行なった蹟罪を侮辱することになると説いている」といい、「まさしくルターの説とおなじである」と断じている。

これは本願寺の正統的教義からすると、いささか「本願誇り」の異安心くさい説きぐちだが、当時このような教説が一向宗として広く流布していたことを示すものだろう。しかもヴァリニャーノは、真宗教義の核心が、救済はずでに定められているというルター的予定説にあることを鋭く見抜いている。

194p
 本願寺と信長との戦争を宗教戦争とすることはできない。信長は真宗の信仰を圧殺しようとしたことはないし、争点は信仰にはないからである。本願寺は政治と経済的利権の面で信長と対立したのである。またこれは百姓と武士の戦いとすることもできない。なぜなら本願寺の武闘を指揮する下間衆は、聖界貴族大谷家の家産的軍事官僚であり、百戦練磨の武将たる彼らを百姓とするのはもとよりノンセンスである。

村々からの番衆をひきいる旗本は国人・地侍であって、この時代はれっきとした武士である。本願寺領国が領主と家臣団から成っており、その組織によって戦ったのだということを見失わなけれは、それを百姓の集団と見まちがえるはずがない。むろん乎百姓は参戦した、ただし下間衆・旗本衆にひきいられて。一方、信長軍の構成も似たり寄ったりである。彼らの将校は国人・地侍であり、足軽・又者・中間・人足はことごとく百姓だった。

 つまりは、百姓たちは信長方にもついたし、本願寺方にもついたのである。本願寺方についた百姓が信仰に燃えてそうしたのだとすれは、信長方についた百姓は新しい世の到来に希望をかけてそうしたのである。むろん兵の徴募は強制を伴なったろう。

しかし一方、本願寺教団には「坊主も御門徒も御流を為損いては、今世・後世とりはずす」(『本福寺跡書』)きびしさがあった。戦さにゆくのはいやだとは、とても言えたものでない。どっこいどっこいというべきである。第一、民衆に支持されないで、信長はどうやって天下を取ったというのだ。本願寺との抗争で信長方についた地下衆は沢山いる。本願寺の領国あるいは教団の中からさえ、信長軍への同調者は続出しているのである。
195p

196p☆
 いわゆる長島の虐殺については、倫理的な悲憤を発するのも大事だろうが、事実を冷静に分析するのがそれに劣らず大事なばずだ。神田千里の『信長と石山合戦』は、叡山や長島のみな殺しに関ずる最初の、そして出色の分析といってよい。神田は次のことをあきらかにした(神田は越前征討についてもふれているが省略した)。

第一に、長島衆は一向衆だからみな殺しにされたわけではない。近江国三宅・金森の一向一揆の場合、降服ののち赦免され、寺内町は安堵されている。また石山本願寺を囲んだ際も、信長は非戦闘員は赦免するという立札をたてさせている。第二に、長島衆は「百姓」だからみな殺しにされたのではない。信長は有力な部将である荒木村重の一族もみな殺しにしている。第三に、叡山・長島・荒木一族の事例にはみな共通点がある。信長は、叡山は出家失格、長島は門徒失格、荒木は武士失格というふうに、それぞれ一種の社会ルール違反を犯したものと認定しており、みな殺しはそれに対する懲罰である。

第四に、これらのみな殺しには、政治的効果をねらった強いアピール性がある。当時民衆のあいだには、「領民を敵の殺戮に任せるような領主は、年貢を取る資格もない領主失格者」だとする通念があった。「戦乱の世を生きた民衆は、何よりも強い、危機管理能力の高い領主を求めた」。これが「虐殺作戦の時代的背景」であって、信長は、山門、長島願証寺、荒木村重が、佳民をミスリードして大量虐殺を招くような領主失格者であることを、民衆にアピ一ルしようとしたのである。

 以上が神田の分析であるが、いずれも強い説得力をもっている。ただし断わっておくが、神田はだから信長の行為は正当だなどと言っているのではない。とくに重要なのは第四点である。これがうがちすぎでないのは、過ちは繰り返しませんという、かの広島爆心地の碑文によってもあきらかだ。この文言は、広島の虐殺は軍国主義的支配者の誤った指導が招いたもので、そのような支配者にしたがう過ちは繰り返さないと言っているのだ。アメリカはまさに原爆投下によって、日本の支配者に失格の烙印を捺すことに成功したわけである。

渡辺京二『日本近世の起源』172015年03月02日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/弓立社

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第九章 領民が領主を選ぶ

198p☆
 領主は領民を保護できるがらこそ領主であって、その能力のないものは領主として失格だというのは、十六世紀にはひろく成立していた観念である。それはまさに、領主の資格の認定者としての領民が歴史の動向を左右するものとして浮上したことを意味し、その意味で徳川体制という日本近世を出現させた原動力であった。

 領主に対して、領内の平和と秩序を維持することを、その資格要件として求める思想は、佐藤進一によれば、十五世紀に武家支配者のなかに出現する。この時期、継嗣の決定にあたって、主人の意志より従者の協議決定のほうが優先する事態がひろく見られ、その場合重んじられたのは候補者の「器用」であった。

「将軍職も守護職も、さらに地頭御家人の所領といえども、職所有者の私物ではなく、職所有者にはそれぞれ日本国内・領国内・所領内の平和と秩序を維持する責任がある、したがって職所有者はその責任を全うする器用をもたねはならず、これを現実に保障するものはそれぞれの家臣の支持以体にない、と考えられている」。これは「鎌倉以来わが政治思想史に見え隠れにあらわれる徳治主義、およびこれと表裏をなす禅譲放伐の革命思想」に裏づけられだ、新しい「政治領域観」である。

200p
 戦国大名の地域主権国家の特徴は、まず領国の完結性である。戦国大名が定めた国内法には、自国民と他国民をはっきり区別する観念がみられる。つまり国と国民の観念が成立しているわけで、このようなとらえかたはすでに十五世紀の守護領国制のうちにはらまれ、国質という法習慣のうちに表われていた。国質とは、債務者が負債を返さない場合、債権者が債務者と同国人の身柄あるいは動産を差し押さえる行為で、先に紹介した郷質の拡大であり、国がぴとつの共同体とみなされていたことを示している。

戦国大名の国家は保護の代償として領民に国家の構成員としての自覚をうながし、国役(課税)、城普請役などの義務を課すことになる。普請とは「あまねく請ける」こと、すなわち国民の義務を意味する。そして検地は、まさに国民の権利と義務を確定するために行われたのである。

 このような動向の背景として、この頃の惣村に村民の資格について、「村籍」とでもいうべき観念・慣行が育っている事実を指摘せねばならない。例えば近江の今堀郷は十五世紀末に、七歳を過ぎて村人と親子関係を結んで人村した者は宮座のメンバーとして認めないという規定を設けており、「村人たる資格は第一にその村の村人として生まれ、幼いうちから村人として育つことであるという主張が、十五世紀後半以降の近江の惣村にはみられるようになる」。

久留島典子は「このような構成員の管理=『村籍』認定化の背景には、誰もが帰属先を持つべきであるという考え方、逆に帰属先を持たぬ人間は排除されるべきであるという考え方が、この時期の畿内近国の村々に広がってきたことがあるのではないか」と言う。だとすれは戦国大名の領民を「国民」として把握し、その権利と義務を確定してゆこうとする動きは、村落が村民の認定権をもつ動きと呼応しているわけであり、「国民」であれ「村民」であれ、帰属による有資格化は同時に構成員の管理強化だったことになるだろう。

205p☆
 しかもこの時代は、社会階層の移動が自由で激しかった。秀吉や蜂須賀小六の前身は問うまでもない。小西村長は薬種屋のせがれだった。越前北庄十八万石の領主となった堀久太郎秀政は、美濃茜部の久助という一向坊主だったと伝えられる。地侍や乎百姓が戦功によって、侍大将やひとかどの侍になりおおせた例は、枚挙にいとまないはずである。

都合の悪い領主を打倒することはあっても、領主という存在自体を打倒しなけれはならぬ衝迫は、どこを見ても出てこない。富樫政親を滅した一向一揆は、その大叔父富樫泰高を守護職に擁立し、やがて本願寺権力を実質的領主と仰いだ。

 領主階級そのものを廃絶して「百姓権力」を樹立するためには、全国惣村連合ともいうべき組織体とその指導部が成立していなければならない。そんなものは成立しようがなかったし、それが成立していないところで領主がいなくなれは、世の中は収拾のつかぬアナーキーに舞いもどるだけだろう。そんなことを百姓は望んではいなかった。彼らには領主―領民関係を廃絶するような発想は存在せず、ただその関係をより望ましいものにしたい願望があっただけだった。

 徳川幕藩制は百姓のその願望に曲りなりにも応えたからこそ、二百六十余年の命脈を保った。それは頭から爪先きまで武装した武家権力が、武装解除された百姓・町人を威圧することによって維持された「兵営国家」なのではない。それは最近朝尾直弘がことあるごとに強調するように、武家領主階級と農民・町人とのあいだに新しく契約が交わされることによって成立した、それなりにリーズナブルな国家であり社会であるのだ。

 そのことは在地の現実を見れはあきらかである。地侍はことごとく武家の被官となって村を出て行ったわけではない。むしろその多くが村落に残ったのであり、そのことから、「かれらがいかに外の領主世界に引かれるところ少なく、村の成員たることに固執していたかがわかる」と池上裕子は主張する。

兵農分離後においても、彼らは村の侍として下人・小百姓を従え、隠然たる勢力を維持していた。彼らが幕藩制村落の庄屋となってゆくのは、荘園制下における沙汰人・番頭として、村内の事情、年貢徴収の実務に通暁していたからであるとともに、そのような村内での実力によるものである。幕藩領主は年貢・夫役の徴収を村請制に頼ったが、このような村の待たちなしには村請制は、少くとも幕藩制成立期には存立不可能であった。

渡辺京二『日本近世の起源』182015年03月03日 00:00

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第九章 領民が領主を選ぶ


206p☆-弓立社

 こうした例は何を物語っているのだろうか。武家の給人つまり領主階級の一員となるより、領民として村に残るほうが、より生き甲斐のある世界を彼に提供したことはあきらかだ。村内における指導者としての声望、大地との関わりにおける生産、農村の美しい四季――それは選びとるに値いする世界だったのである。

つまり、領主階級の一員として上昇する可能性を十分にもっていたひとりの地侍が、そうせずにあえて領民の地位を選択したという事実のうちに、新たに構築し直された領主―領民関係が、領民にとって望ましく受けいれるに足るものであったことがはっきりと示されている。

208p
 いわゆる「刀狩り」については、藤木久志の近年の研究が、その意義と実態を明らかにしつつある。刀狩り令が百姓の武具所持を禁止し、その没収を指令しているのは明白だが、「そこには、喧嘩停止令にも共通する、苛酷な自力の法の支配からの解放、という中世社会の歴史的な課題が、公然と掲げられている」と藤木は言う。

しかもその実態は主として刀の没収であり、たとえぼ加賀国溝口氏の例では合計三九七三本のうち、槍がニ八〇本、ほかはみな刀・脇差・小刀の類で、鉄砲は一本もなかった。つまり「刀狩り令」は実態においては「百姓帯刀権を原則的に否定」する「身分規制の性格を強く帯びていた」。「標的は文字通り『刀』だったのです。それも村の武装解除どころか、並行して村では、神事の刀剣、旧家の帯刀、害獣用の鉄砲など、さまざまな武器の免許が行われました」。

209p
 近世における民衆の武装解除という通説を、「農具としての鉄砲」という視点から切り崩したのは塚本学である。貞享四(一六八七)年、綱吉政権は諸国鉄砲改めを行ったが、それによると信州松本領では一〇四〇挺の鉄砲が村方にあった。一方領主たる水野家が所持する鉄砲は二三一挺でしかない。むろんこれは鳥獣と戦うための鉄砲であるのだが、このような在村鉄砲は領主も認めざるをえない実情だった。

綱吉政権は初めて在村鉄砲の規制にのり出すが、その政策は以後の幕政には継承されなかった。塚本は徳川政権が豊臣政権の刀狩り令を継承したというのは「史料によって実証された事実ではない」と言う。しかもその刀狩り令の実態は藤木によって明らかにされた通りなのだ。藤木によれは「近世を通して百姓らの脇指を携帯する慣行が、原理的に否定されることはなかった」。

 藤木久志によれは、秀吉権力は初期から「個別領主・百姓間の紛争に公平な裁定者として臨む」という態度を示し、領主や代官と争いを起した百姓が最高権力に直訴するいわゆる「越訴」を認めていた。それは「村々の土一揆的な実力行使の広い展開(戦争)とその動きを、強訴すれすれの提訴(平和)に転化させることによって、切迫した百姓・代官の武力衝突の危機を回避しようとする、豊臣方の高度な政治の力わざ」なのだった。

そして「このような村から大名への『越訴』のシステムの成立は、じつに戦国期にさかのぼる」のである。徳川政権は百姓の幕府に対する「越訴」を禁じたというのが長い間の定説だったが、それも最近の研究によって否定されるに到った。

210p☆
 藤木は「豊臣の在地にむけた主な政策のぼとんどが、村の起請文を伴って実施されている」こと、すなわち「村に実施要綱を示し村の誓約を求める、という手続きを通して実現されてい」ることを指摘し、この手続きが「領主と百姓との間に設定された『合点』の回路にほかならず、まさにこの点で、百姓起請文は領主側の恣意を下から拘束しえた」とする。

しかしこのような慣行は「豊臣政権の独創などではな」く、百姓連署の起請文は中世初期に「惣結合や荘家の一揆とともに、百姓申状とのセットというかたちをとって、すでに一般的に成立をみていた」のであって、「豊臣の政策は明らかに中世の『村々』の主体的な力量を基礎に、村と領主とのあいだのこうした起請の慣行を背景として成立していた」という。

 久留島典子は戦国期は百姓の自立志向を大名が抑えつけて支配を強化する時代であり、その過程を経て形成された徳川体制は百姓を厳しく土地に緊縛するものと考えられた時期もあったと前置きし、次のように述べる。

「領主たちは確かに共同して百姓たちの動向に対応したが、それは百姓や従者をより厳しく緊縛し支配する体制というよりは、村や町の共同組織が形成されつつある状況に対応し、それを取り込む形で、その共同組織を通じて百姓・町人を支配する体制へと向かったのではないか――最近ではこう考えられるようになってきた」。

むろんこれは勝俣鎮夫の「村町制」の提唱に始まり、尾藤正英の徳川社会論にもつながってゆく今日の研究動向を指摘したものだが、いわゆる徳川の平和が支配と自治のせめぎあいを含む相互依存から生れた事情をよく語っている。

領主は領国のうちに平和を実現すべき責任があるという、十五世紀に生まれた政治思想が、十六世紀にはひろく地下衆に浸透し、戦国大名の国家理念となって、ついに秀吉の統一国家を実現し、徳川の平和として現実に実を結んだのは、村々や町々に築きあげられた共同という社会的基礎があってこそだった。徳川の平和とは村々や町々に充ち溢れた豊かな生命の光であり、そのことは徳川の世が深まるにつれて明らかとなったのである。

渡辺京二『日本近世の起源』192015年03月04日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/弓立社

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終章  日本近世は何を護ったか

220p☆
 徳川体制の成立とは要するに、全国統一とはいうものの、戦国期を通じて形成された地域的小国家をそのまま温存して、徳川政権に臣従ぜしめたものだった。むろん戦国期の小国家は独立性の大半を喪って、徳川中央政府の統制に服しはしたものの、彼自身戦士である大名は戦国期を戦い抜く戦闘専業者集団すなわち家臣団もろともに、頭から爪先まで武装して安堵された領国に居据わったのである。

高木昭作が「近世においては国土それ自体がひとつの巨大な兵営であった」と言うのは、彼なりの独特な含意においてであるが、もっと普通の意味で、つねに臨戦体制にある幕府と各藩が、少くとも島原の乱の頃までは一種の「兵営国家」的性格を帯びていたのは、否むことのできぬ事実だろう。

 ところがこの「兵営国家」が、少くとも十八世紀初頭までには、同時代でも珍らしい「平和国家」、殺伐の気が毛ほどもなく、社会的緊張もほとんど緩んだ駘蕩たる社会、ケムペルによれは「世界のどこの国からも煩わされずに安穏に生活し、極めて明るい自制と悦楽に明け暮れ」ている社会に変貌したのである。

なにゆえ、いかにしてと問うのはこの本の主題ではない。だが一言ですますならば、十六世紀という大転形期のあの流血と騒乱は、もともと徳川の平和をあがなうためのものだったのだと答えるしかあるまい。徳川の平和は武装した幕藩領主の連合によって実現した。しかしそれはいったん成立するや、武家支配社会の「兵営」的性格を骨抜きし、あけくは払拭するような方向性を当初から備えていたというべきである。

その意味で、「秀吉や家康らの支配に人々が服従したのは、その指導のもとに形成された新しい秩序が、むしろ好ましいものとして受け入れられたからこそであろう。そうでなく、もしそれが権力による一方的な抑圧や強制の結果であったすれは、そののち二七〇年間にわたって国内の平和が維持されたという事実を、どのようにして合理的に説明することができるのであろうが」と尾藤正英が述べているのは説得的である。

221p☆
 徳川政権は秀吉権力のあとを受けて、戦国の分裂状況を克服し、平和と秩序をもたらした。その意義は大きい。しかし、国家強権において社会内の平和と秩序が創出されるというのは、いうまでもなく近代主権国家への第一歩にほかならない。私が、反国家というウルトラ近代的な視点から近代主権国家を否定する夢想家たちにくみするものでないことは、ここで断わっておく。

しかし、近代主権国家こそ、土地と慣習に根ざした人間生活の自立・自存、すなわちイヴァン・イリイチ(Ivan Illich 1926~2002)のいうヴァナキュラーな(その地の暮らしに根ざした固有の)価値を殲滅した元凶である以上、そして人類の未来がこのヴァナキュラーな価値の再建という一点にかかっている以上、徳川期の有する近代性なるものを手放しで評価するわけにはいかない。

224p☆
 徳川期の国家はむろん、西洋史における絶対主義段階との単純な同定を許す性格のものではない。だが、国家領域における統合を通じて産業と商業に全般的な繁栄をもたらしながら、人びとの自立・自存の基盤、イリイチ風にいうとヴァナキュラーな社会的「共有地」に干渉せず、しかも土地と労働の商品化を干渉的に阻止した点で、幕藩制国家と西洋絶対王政は奇しくも機能的な一致を示している。徳川期をたんに早期近代と見るだけでは、その期間を通してヴァナキュラーな価値の存続が許されたという重要な論点が欠落することになろう。

 徳川期の社会は、今日極相にまで到達した近代を批判的に照らし出すゆたかな啓示にみちている。そのような社会を可能ならしめた国家機構、さらにそこに花咲いた文化は、批判以前にまず理解すべきものとしてわれわれの眼前に在る。しかしそれはこの本の主題ではない。

私はそのような語義通りにユーニ一クな一文明が出現するまでの苛烈な道程を、従来の市民主義史学ないし左翼史学と全く反する視点で、しかし何人かの秀れた史家の助けを借りて読み解いてみようとしたにすぎない。いまや私のささやかな、しかし道中の難儀も乏しからぬ旅は終った。