渡辺京二『近代の呪い』第一話 近代と国民国家 32015年01月28日 00:00

『近代の呪い』渡辺京二/平凡社新書

http://www.heibonsha.co.jp/book/b163648.html

第一話 近代と国民国家…自立的民衆世界が消えた

反国家主義の不可能性

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また、経済のグローバリズムによって国家の機能が弱まったなどというのは、とんだ藪睨みです。グローバルな資本移動が起りパニックが生じると、国家防衛に必死になるのが現状じゃありませんか。結局は国益、国益なのです。当り前ですよ。世界経済の中で自分の国が没落するというのは、景気の悪いのが一切の元凶だとみんな口を揃えている国民のたえられるところじゃありませんからね。

 国際社会には、インターステイトシステム、すなわち世界経済内で国民国家の地位を争うシステムから離脱する兆候はありません。右を見ても左を見ても、自国の経済的立場を防衛しようとしております。外国人の参政権を認めるとか、移民を歓迎するなどという、一見国民国家と反するような現象も、国家の統合と国際的地位を防衛するために、「国民」の枠をひろげているにすぎません。

一方、サッカーの国際大会は世界戦争の代理現象になっています。そのこと自体は戦争するよりましですが、国民国家単位の自尊・自己満足はとどまるところを知らぬ現状です。

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 世の中には反国家主義を大変自慢気に標傍されている方々がありますが、私はその気持もわからないではありません。だがその考えは貫徹できないと私は考えています。それにはふたつの理由があります。

 第一に、今日の国民生活、とくにその経済的水準は、自分の属する国民国家の世界経済内でのパフォーマンスに左右されます。国民の生活水準を維持したいならば、並立する諸国民国家との経済的競争にかち抜かねばなりません。

ですから、国家なんてオラ知らねえというのは、自分の耳する国民国家が国際競走に敗れて、国民の生活水準が低下してもオラ知らねえというのと同義なのです。これは到底、国民の同意を得られる態度ではありません。

もちろん、生活水準なんてどうでもよろしいという生きかたは、個人の信念としては可能です。だが、個人として信じる道は他者にもすすめてともに歩みたい道であるはずですから、他者にすすめても到底受けいれてもらえない道というのは、何か欠陥があるのです。
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 国家は幻想だといえば、それから簡単に解放されたような気分になるのは錯覚です。幻想だからこそ厄介なのです。幻想というのはすべて現実に出現の根拠を持っていますから、すこぶる頑強なのです。私たちは風土と言葉によって人間となり、個人となったのです。

この風土と言葉は強く特殊性を帯びていますから、個人としての私に日本人という共同の網をかぶせてきます。そして風土も言葉もたんなる実在ではなく、すでに観念によって染めあげられたものですから、日本人という幻想の網は、それが幻想だということを知ったからといって、どうにもなるものではありません。

国民国家における「人間の条件」

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 国民の一人一人が国政や外交方針などについて、十分な知識と見識を持たねばならぬなんて、しんどいことじゃないでしょうか。現実には、国民一人一人が国政に参加して論客となれば、そこに出現するのはメディアに煽動されたポピュリズム政治であることが多いようです。

そもそも民主主義政治というのは、国民全部が論客になって議論せねばならぬものでしょうか。それでは何のために代議制があり、何のために政治家という職分があるのでしょうか。国民国家単位の国際的競争によって国民の生活水準が左右される以上、国家なんて知らねえという態度は成り立たぬと私が申しあげたのは、だから国民が国家意識にもっと目覚めよとか、勉強して自分の手で国の梶とりができるようになりなさいとか、そんな意味ではまったくありません。国民が全員政治に関心があって、政治評論家になるというのは実は不健全な状態だと思います。

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 近代というのは、そういう人間の能力を徐々に喪わせてゆく時代だったのではないでしょうか。すべての生活の局面が国家の管理とケアのもとに置かれ、国家に対して部分利益を主張するプレッシャー・グループとして行動するか、正義やヒューマニズムの名のもとに異議申し立てをするかの違いはあっても、いずれも国家に要求するという行動様式に型をはめられてしまう。

要求すればするほど国家にからめとられてゆく。そして、実質的な人生のよろこびから遠去かってゆく。この点では、専門家として民衆生活の管理・改造をめざしてきた知識人の責任はきわめて大きいものがあります。