渡辺京二『日本近世の起源』132015年02月26日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/弓立社

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第八章 一向一揆の虚実

169p☆
 親鸞(1173~1262)というのはむずかしい人である。その言辞は逆説にみち、容易に教条化を許さない。ただその核心が、人間という存在の救いのなさの、常人の次元を超えた徹底的な覚知にあったことは疑いようがない。人聞は貧苦や病苦、老いや死を免れないから救われないなどと、説教坊主のようなことを彼は言わない。ただしずかに、われわれ人聞はどんなに努力精進しても自力では救われぬと眩くだけである。たとえ貧苦や病苦、老いと死から免れていようとも、人間に救いはないのだ。その凝視は揺らぐことがなかった。

 だがら競鸞はまず何よりも、宗教の説く救済を否定してかわりに絶望を説いたのである。ただ、そこから彼は反転した。それが彼の宗教者たるゆえんであって、救いなき身であればこそ救いはすでに現前しているという、特異な救済の自覚がそこに成り立つ。この人の世が、さまざまな修行や善行によって救いをうることができる構造になっているのなら、人間にはもともと救いは要らないのだ。

救いのないという事実が絶対であればこそ、救済の存在もまた絶対的なのである。絶望のないところに救済の要請があるはずはない。救われぬからこそ救われねばならぬのである。他カとはこのこと以外を意味しない。おのれの計らいをこえた救いをもたらしてくれるのは、いうまでもなく阿弥陀仏の悲願である。都合のいいときに阿弥陀仏が待ち構えてくれていたものだなどと、つまらぬ皮丙は言うまい。

親鸞のいう阿弥陀仏とは、大乗仏典に源を発するたんなる教説(ドグマ)ではなかったからである。阿弥陀仏はすべての衆生を光明のうちに摂受すると誓ったありがたい仏なのだから、その誓願が存在ずる以上、汝ら衆生の往生はすでに決定(けつじょう)しているというだけのことなら、それを教学的に説けぼ一個の中世的ドグマにすぎず、それを盲目的に信じこめは一個の迷信にすぎない。親鸞にとって阿弥陀仏とは教説でもなけれは観念でもなかった。

170p☆
 私は親鸞の前に、阿弥陀仏はかならずや、山河の姿をとって現われただろうと信じる。また、人間の生きる姿の悲しさとして現われただろうと信じる。親鸞にとって阿弥陀仏とは、人間も含めたこの世界という存在が語りかけてくる声ならぬ声にほかならなかった。つまり彼は絶対的救済者の現前を、たしかにひとつの肉感として覚知したのである。しかも、おのれの思惟や行為をこえた、まったく向うのほうからやってくる他力としてそれを感受したのである。

 親鸞は人間を含むこの世界の構造を、救いなき悪と覚知したのではなかったか。彼の悪の自覚は、説教坊主が説くように、わが身の悪をよく認識・反省し、そういう悪人たるわが身が生かされている不思議を思いみて、感謝の心をもちなさいといった、そんな程度の悪の認識なのではなかった。反省してどうにかなるような悪なら、そもそも救済は必要とせぬ。親鸞は現実世界内の倫理を説いたのではない。彼が必死に尋ねたのは、世俗世界を超えた次元での救済だった。

 宗教はこの世での人間の身の処しかたを説くものではない。むろんそれが世俗社会のひとつの構成要素として在る以上、宗教は独自の倫理体系を発達させることになる。しかしそれは宗教の本義ではない。親鸞はあくまで宗教者だった。宗教事業者、つまり宗教の宣布者・組織者だったのではない。宗教者というのは神を感受する人である。そして親鸞の場合神は、救いなき身という虚無の徹底的な覚知があって初めて出現した。そういう特異な神であった。

それは彼が、救済が先験的に拒絶されている世界の構造を覚知しながら、それゆえにこそ同時に、すでに救済されているもうひとつの世界の相を覚知したことを意味する。このあたりはまさに言語を超えた世界であって、それが、山河あるいは人間の生きる姿の悲しさとして現れただろうというのは、ただ私のひそかな思念にすぎない。

171p☆
 彼がおのれの見た絶対的救済者を阿弥陀仏に求めたのは、生涯法然(1133~1212)を師としてあがめた彼の仏僧としてのありかたに起因する。しかし、彼はひとつの教説を宣布しようとしたのではない。ただ、救済はすでになされているという覚知を人とともにし、そのことへの感謝のくらしを人とともに日々生きたかったのである。だから彼に弟子はなく、ただ同行の衆あるのみだった。


173p
 蓮如(1415~99)はこのような教団の嗣子として生れ、八世の宗主となったのである。彼が生まれたころ、本願寺は高田専修寺派、渋谷仏光寺派などの浄土真宗各派にくらべてはなはだ振わず、参詣の人もまれだったといわれる。しかし、「蓮如以前の本願寺の衰微・暗黒時代を想定」するのは誤りだと井上鋭夫は言う。

覚如の時代にも、また蓮如の父存如の時代にも、本願寺には衆僧のほかに坊官・家臣が住みこみ、その数は数十名に達していた。教線も歴代の宗主の努力によって、越中瑞泉寺、加賀本泉寺、越前超勝寺など、着々と北陸へ伸びていたのである。

 蓮如について多くを語る必要はあるまい。彼はたしかにすぐれた宗教者であったろうが、同時に宗教事業者たるべき星のもとに生れ、そのようなものとして比類ない力量を発揮したことを確認しておけばよい。彼の説いた教義は、阿弥陀仏の摂受によって往生は決定しており、一刻もはやくそのことに気づいて、ひたすら阿弥陀仏をたのむ心を起すことこそ安心決定であるとするもので、覚如によって確立された本願寺教団の教説を出るものではない。

ただその卓越した文才と横溢する人間味にあわぜて、山に猟をするもの、海に漁るもの、弓矢をとって武士に奉公するもの、鋤鍬をさげて大地を耕すもの、つまりあらゆる「われらごときいたずらもの」が、男女ともに南無と帰命するだけで救われると説く点において、彼の言説はすぐれて衝迫である。

175p
 文明五年、蓮如が門徒衆の一揆にゴーサインを出したのは、それを護法の一揆と位置づけたからである。蓮如は仏法に対する王法・世法の干渉をおそれた。そのため坊主・門徒に自制を説くとともに、つねに有力な外護者を求めた。この時点で彼は富樫政親を外護者に見立てていた。

「こうして専修寺派を圧倒しつつ本願寺の拡大をはかってきた蓮如は、その加賀における有力な保護者を富樫政親に見出したのであり、ここに本国を追われた薄命の武人と野心満々たる乱世の宗教家とは、幸千代打倒の一点において利害の一致を見たものとしなければならない」と井上が言うのは、よくことの一面を衝いている。

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