渡辺京二『逝きし世の面影』第四章 親和と礼節 12015年01月07日 00:00

『逝きし世の面影』渡辺京二/平凡社

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第四章 親和と礼節


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 英国商船の船長ヘンリー・ホームズ(Henry Holmes 生没年不詳)は一八五九(安政六)年交易を求めて長崎に来航したが、早朝町へ出かけて、人びとが寝ている家へあがりこんだ。「家へ入るには裏戸を押すだけでよかった。ロックもボルトもなかった」。

彼がいうには、その家族は機嫌よく迎えてくれ、彼は「家人たちと朝早くからふざけ合い」、その家だけでなく他の多くの家でも「家族の人びとと一緒にごろごろと床の上をころげまわったり、ひっくり返ったりして遊んだのである」。

このいささか信じがたいような"冒険譚"は措くとしても、日本の家がこのように外部に対して開放されていたのは疑えぬ事実だ。そして実際にその中に侵入しなくても、ヒューブナーのいうように、何よりもまず視線が自由にはいりこむのを許されていた。

「家は通りと中庭の方向に完全に開け放たれている。だから通りを歩けば視線はわけなく家の内側に入りこんでしまう。つまり家庭生活は好奇の目を向ける人に差し出されているわけだ。人々は何も隠しはしない」。

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 通商条約締結の任を帯びて一八六六(慶応二)年来日したイタリア海軍中佐ヴィットリオ・アルミニヨン(Vittorio F.Arminjon 一八三〇~九七)も、「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国はほかにはない」と感じた一人だが、

彼が「日本人の暮らしでは、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。人々は親切で、進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階層にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しないような人間だけである」と記しているのは留意に値する。

つまり彼は、江戸時代の庶民の生活を満ち足りたものにしているのは、共同体に所属することによってもたらされる相互扶助であると言っているのだ。その相互扶助は慣例化され制度化されている面もあったが、より実質的には、開放的な生活形態がもたらす近隣との強い親和にこそその基礎があったのではなかろうか。

 開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった。我々は江戸時代において、ふつうの町屋は夜、戸締りをしていなかったことをホームズの記述から知る。しかしこの戸締りをしないというのは、地方の小都市では昭和の戦前期まで一般的だったらしい。ましてや農村で戸締りをする家はなかった。

アーサー・クロウは明治十四年、中山道での見聞をこう書いている。「ほとんどの村にはひと気がない。住民は男も女も子供も泥深い田圃に出払っているからだ。住民が鍵もかけず、何らの防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている」。
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 ポンぺは長崎の出島に住んでいた五年間(安政四年~文久二年)、「自宅のドアに鍵をかけるなどまったく念頭にも浮かばなかった」。オリファントも使節団宿舎の芝西応寺での経験を次のように語る。

「我々の部屋には錠も鍵もなく、開放されていて、宿所の近辺に群がっている付添いの人たちは誰でも侵入できる。またわれわれは誰でもほしくなるようなイギリスの珍奇な品をいつも並べて置く。それでもいまだかつて、まったくとるにたらぬような品物でさえ、何かがなくなったとこぼしたためしがない」。

ムンツィンガー(Carl Munzinger 一八六四~一九三七)は一八九〇(明治二十一三)年に来日したドイツ人宣教師だが、「私は全ての持ち物を、ささやかなお金も含めて、鍵も掛けずにおいていたが、一度たりとなくなったことはなかった」と書いている。

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 モースは、日本に数ヵ月以上いた外国人はおどろきと残念さをもって、「自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品格を、日本人が生れながらに持っている」ことに気づくと述べ、それが「恵まれた階級の人々ばかりではなく、最も貧しい人々も持っている特質である」ことを強調する。