渡辺京二『日本近世の起源』102015年02月23日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

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第六章 中世の自由とは何か

122p☆-弓立社
中世農奴の性質については、西洋史学界でも自由人没落説と奴隷向上説の対立はあるものの、「原始・太古の人民の本源的な『自由』」なるものを何の疑念もなく前提できるような暢気な状況にはない。第一、原始・太古に「人民」がいたはずがないではないか。文化人類学の所見を尋ねても、原始人の自由なるものを学問的概念として措定するような段階はとっくに過ぎ去っている。

 要するに歴史上の「無縁」なる現象は、「人民」の自由度の歴史的変遷として通時的に意味づけるよりも、人類の文化に内在する二極構造の一極として共時的に読み解くのがはるかにふさわしい現象であろう。

俗・現世・日常・秩序・所有の極に対応するものとして、聖・彼岸・非日常・無秩序・無所有の極がいかなる時代いかなる地域にも潜在し、状況に応じて露呈し噴出する。しかし前者なくして後者は存在しえず、この両者の緊張をはらんだ均衡もしくは交替のうちに、人間社会の軌跡は描かれるのであって、有縁/無縁の対立も人類史を通じてつねに出現し作用する構造的二極なのであった。

125p☆
オットー・ブルンナー「すべての農民的自由はある保護領主の保護支配権のもとにおける制限された自由」なのである。この点を更にK・ボーズルに聞くならば、「社会の「下層」に「自由」が存在する場合には、それは国王(場合によっては有力貴族及び教会)によって与えられた『職務』ないし『課題』を根拠として作り出されたものであり、国王との間に直接的に結ばれた保護・奉仕関係として、それ自体が人身的な支配・隷属の一形態なのである」。すなわちそれは「非自由な自由」=「自由な非自由」にほかならなかった。

126p☆
 自由とはまたおのれの属する集団の特権を死守することである。ヨハン・ホイジンガ(1872~1945)に従えば、日本の近代史学が憧れてやまなかった「中世的な都市の自由」とは「最も狭い範囲に属する社会集団の利益のために他のすべてを犠牲にする自由」だった。

フェルナン・ブローデル(1902~1985)は中世において自由という言葉は複数形で用いられることが多いと指摘した上で、次のように言う。「『自由』という語は、このように複数形におかれると、『特権』とほとんど異なるところがなくなる。自由とは、特権【フランシーズ】(都市や団体や個人に賦与された特権)の謂であり、人間集団や利益集団はそれに守られ、その保護を笠に着て他の集団を攻撃した。それも多くは恥ずかしげもなくであった。」

 以上諸家の言述を紹介したのは、むろん西洋中世の話である。しかしへルマン・ハインペル(1901~88)の言うように近代は「古い自由の解体と共に始まる」のであれば、近代が生みだした自由を、それが解体した古き自由に投影することによって生ずるあらゆる言述は一切が無効であるほかはなく、その事情はわが国の場合においても変ることはない。

江戸人にとっての自由が、現代人たる今日の歴史家の頭に宿る自由の観念といかに距たり異質であるか、そのことに思いを致すならば、ましてや日本中世の人々にとっての自由を、今日の人民闘争的「自由」観の脈絡で論ずるなど、およそ歴史家の所業とも思われない。

 わが国中世の自由がわれわれの前提する近代的自由などとはいかに異質で、一筋縄ではいかぬしろものであるか、「身の暇【いとま】」という言葉に関する笠松宏至の卓抜な考裂を見ても明らかである。笠松によればこの言葉は、「供奉の御家人ら多く身の暇を賜って帰国す」とあるように、「肉体の物理的拘束からの解放」ばかりではなく、「もっと広い意味でよりメンタルな自由、安穏」を意味した。

ところが同じ言葉が将軍から家臣が死を賜わること、すなわち諌殺を意味する場合があったのである。この場合まさに「身の暇」とほ「託身保護関係の消滅であり、事実上の死の宣告であった」。笠松はこの両義性を中世における自由が現代的感覚からみれば、逆に不自由の表現である場合があることの一例とする。日本中世にあっても、自由は西洋中世同様イクォール保護・拘束を意味した。鎌倉御家人は将軍の保護のもとにあり、それは出仕の義務という拘束とセットであった。

「身の暇」が一時的に拘束を解くことである場合、それは近代的な意味での自由に近づくが、永遠に自由にしてやると言われれば、それは死ねということで、自由即保護喪失という機微は、かのフォーゲルフライの場合と何ら変ることはなかった。

133p
池上裕子は百姓の「被官化あるいは侍身分の形成は、一五~六世紀の村々にわきおこった・全国規模の運動、あるいは事象ではなかったか」と言い、「大名家臣への被官化も含めて、一郷村でおよそ一〇人前後、ときにはそれ以上の村民が侍身分への積極的転身をはかった」と推定している。

網野や朝尾に代表される、主従制イクォール私的隷属とする従来の左翼史学のドグマでは、このような史的事実は全く理解不可能となろう。また徳川期の民衆が熱狂的に支持した歌舞伎の主要な主題のひとつが、主従のきずなをめぐっての信愛と情緒だった事実も、おなじく説明に窮する仕儀になるだろう。

136p☆
ただ私は、主従関係が前近代にとって生の充溢をもたらす感情的源泉でありえたし、主人に対する奉仕が隷従とほど遠く、かえっておのれの尊厳と内面的自信を保証さえする場合があった事実を、いり組んだ学説史の詳細とは無関係に主張したいのにすぎない。

 というのは、明治維新前後に来日した西洋人は日本の主従関係がいちじるしく親密であり、従者は主人に対してほとんど保護者的感情をもって、主人にもっともよいと思われる処置をおのれの専断で計らうことにおどろきの目を見張ったのである。

私はこれが維新前後のみの現象とは思わないし、またヴィクトリア朝英国における主従関係がどうであったかは別として、とくに日本に限った話とも考えない。かのカズオ・イシグロの偉大な小説‘The Remains of the Day’の語る通り、二十世紀の英国でさえ、主人に対する奉仕と献身は従者の個としての尊厳の源泉でありえた。

そもそももっとも隷属的な主従関係であるはずの奴隷制においても、子守女、家庭教師等の仕事についた奴隷は自分が育て教育した子どもの深い尊敬と愛着をかちえ、両者のかたい結びつきは生涯にわたったのである。

 十六世紀という乱世において主従制が獲得した新しい意義について考える前に、室町期における主従制に関してふたつのことに注意しておきたい。ひとつは十五世紀に、家督決定における親権優先が否定され、親族一門、家老・宿老層の衆議による慣行が成立したことである。今谷明によれば「かかる親族家臣団の衆議重視は、笠谷和比古が"主君押込(おしこめ)の構造"で指摘した近世大名家の内紛収拾過程にも見られるところであり、室町・江戸社会を通底する慣行であった」。
137p

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