渡辺京二『日本近世の起源』142015年02月27日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

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第八章 一向一揆の虚実

176p-弓立社

 もちろん、生じつつある剰余を貴族や守護大名に収奪されることを拒否して、わが手に保留しようとするのも立派な闘争であるだろう。しかしこの時代、一般農民はけっして収奪にあえいでいたのではない。彼らば惣村の指導者たる地侍にひきいられて、荘園領主から実質的に年貢軽減をかちとっていたのである。

荘園領主は年貢の減少あるいは杜絶によって深刻な打撃を受けていた。剰余は守護大名・国人・惣村の地侍によって分けどりされつつあった。加賀内乱の本質は、守護大名と国人・地侍の国一揆との得分をめぐる争いだったのだ。この時期には、本願寺門徒ばまだ惣村(郡)を制圧していなかった。彼らは国一揆の一翼として戦いに参加したのである。

178p
 第十世の宗主証如(1516~54)はなるぼど、加賀一国をおのれの「知行」とは認めなかった。だがそれは、幕府が加賀守護職と認定する本願寺に国役(臨時の賦課)をかけようとするのを拒否する遁辞にすぎない。自分は宗儀によって現世に所領を持つ身ではないから、国役の件は所領をもつものに申しつけてくれとは、なんと白々しい言い分だろう。

証如時代に本願寺は加賀国内に莫大な知行所をもっていた。そればかりではない。その加賀国内での領主権は、井上鋭夫によれば次のように整理することができる。①本願寺は国内での在地検断権の上に立つ最高裁判権をもつ。②本願寺衆が国内でもつ荘園の代官職・名主職は、宗主によって安堵・没収・補任される。③本所領家(荘園領主)の依頼に応じて年貢納付を在所に命じる。④郡・組・村から年貢・志納を徴収し、未進があれば懲戒する(門徒の志納は領主権とは関係がない。しかし加賀では志納もまた年貢化した)。⑤国人を旗本に任じ、将軍家被官に擢薦して和泉守などの公名を授ける。

このような守護権力以上の領主権を行使しながら、さらに厖大な貢租を収取・集積しながら、本願寺は領主にあらず、あくまで現世に望みをもたぬ宗教団体だというのである。まさに左手のしていることを右手は知らぬというわけだ。金沢御坊は誰が何のために設立したというのか。

179p
 宗主が生害(死刑)御勘気(破門)後生御免(免罪)などの手段で、教団内部の統制を強化したのは証如の時代である。だが宗主の裁判権はたんに教団内部だけではなく、加賀領国や寺内町では、一般住民に対しても行使された。藤木久志は本願寺本山の検断権を分析して、世法から自立したものではなく、「世俗の法規範に強く制約され」たものと結論づけている。

また彼は、加賀国の仕置において本願寺が、加賀の郡権力の在地的検断権を認めた上で、在地での紛争解決が行き詰まった場合に、調停にのりだす形で上級検断権を行使したことを指摘する。すなわちそのありかたは、法的視角から見るかぎり「成立期の戦国大名権力のありかたに酷似し」ているのである。

180p
 実如の弟実悟はのちになって永正一揆をふりかえり、「そのみぎり以来、当宗御門弟の坊主衆以下、具足かけ始めたることにて侯」と語っている。むろん本願寺派の坊主は文明年間から、すでに『具足懸け』を行なっていた。しかし、宗主の指令によって坊主・門徒が戦争行為を行なうようになったのは、永正以来だと実悟は言うのである。

井上鋭夫は、実如が政元援助に踏み切ったのは、北陸で「教団と守護勢カとの対抗関係が、もはやぬきさしならぬものになっていた」ためだと言う。本願寺はいまやたんなる教団ではなく、一定地域の政治経済的支配権をもち、それ自身の軍勢を有する一個の権門であった。その権門の地位を守るため、こののち宗主と本山は戦国大名とめまぐるしい連合と抗争を繰り返すことになる。それは百姓の一揆どころか、宗教一揆でさえもなかった。

184p
 長享一揆は、衰退にむかう本所・領家の荘園公領支配を前提として、守護方と一向衆方(門徒・非門徒連合)のどちらが収穫を刈りとるかという闘争だった。一向衆を主導するのが、小領主たる本願寺末寺、国人、地侍であることはすでに述べた。むろん惣村の乙名である地侍のもとには多数の平百姓が従っていた。

「あの急峻な城山をよじのぽり、乱杭・逆茂木を焼き払いつつ、富樫政親一党を滅した勇敢な門徒」と井上が讃美する一揆勢(門徒でないものも大勢いたはずだが)のうちに、平百姓が多く含まれていたことは想像にかたくない。しかし、彼らがいかに彼ら自身の願望によって行動したにせよ、現実には小領主たる末寺、れっきとした武士身分である国人、やがてのちには近世の領主・給人になり上がる地侍の指導と統制のもとにあるかぎり、この闘争を彼ら農民の闘争と規定するのはしょせん無理な話だろう。

 攻め滅ぼされた政親は,誇張はあろうけれど一万余人の兵を集めたといわれる。むろんその少なからぬ部分は百姓や下人だったのである。一揆方の平百姓は自発的に参戦したが、富樫方のそれば強制徴募されたのだなどと、見てきたようなことを言ってはなるまい。この時代の農民は様ざまのかたちと次元で領主と結ばれている。兵農はまだ分離されていない。利害や慣習や情誼にからめられて、守護方につく農民はあって当然なのだ。富樫氏はもともと北加賀富樫庄を本貫とする豪族で、根は現地におりていたのである。

 かくて出現した本願寺領国支配は重要な点で、戦国大名の領国支配に通底する性格を持ち、とうてい農民権力などと呼ぶことはできない。本願寺教団自身が本山―本寺―末寺―門徒の階層構造をもち、重層的な主従関係を内包していたことは、宗主と寺院間の安堵―奉公という関係、宗主に対する「殿様」「上様」といった呼称からして明白である。

もちろん門徒は宗主と主従関係をもつものではない。しかしそれは大名が領民と主従関係にないことと同様である。真宗は同朋教団といわれるが、「知識は『同行』を私財化し、門末は知識を崇めて弥陀如来に擬するようになる。それが本願寺宗主権のもとで認証され、宗主を絶対的な『知識』とする支配関係が成立するとき、本願寺教団として組織されるのである」。

渡辺京二『日本近世の起源』132015年02月26日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/弓立社

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第八章 一向一揆の虚実

169p☆
 親鸞(1173~1262)というのはむずかしい人である。その言辞は逆説にみち、容易に教条化を許さない。ただその核心が、人間という存在の救いのなさの、常人の次元を超えた徹底的な覚知にあったことは疑いようがない。人聞は貧苦や病苦、老いや死を免れないから救われないなどと、説教坊主のようなことを彼は言わない。ただしずかに、われわれ人聞はどんなに努力精進しても自力では救われぬと眩くだけである。たとえ貧苦や病苦、老いと死から免れていようとも、人間に救いはないのだ。その凝視は揺らぐことがなかった。

 だがら競鸞はまず何よりも、宗教の説く救済を否定してかわりに絶望を説いたのである。ただ、そこから彼は反転した。それが彼の宗教者たるゆえんであって、救いなき身であればこそ救いはすでに現前しているという、特異な救済の自覚がそこに成り立つ。この人の世が、さまざまな修行や善行によって救いをうることができる構造になっているのなら、人間にはもともと救いは要らないのだ。

救いのないという事実が絶対であればこそ、救済の存在もまた絶対的なのである。絶望のないところに救済の要請があるはずはない。救われぬからこそ救われねばならぬのである。他カとはこのこと以外を意味しない。おのれの計らいをこえた救いをもたらしてくれるのは、いうまでもなく阿弥陀仏の悲願である。都合のいいときに阿弥陀仏が待ち構えてくれていたものだなどと、つまらぬ皮丙は言うまい。

親鸞のいう阿弥陀仏とは、大乗仏典に源を発するたんなる教説(ドグマ)ではなかったからである。阿弥陀仏はすべての衆生を光明のうちに摂受すると誓ったありがたい仏なのだから、その誓願が存在ずる以上、汝ら衆生の往生はすでに決定(けつじょう)しているというだけのことなら、それを教学的に説けぼ一個の中世的ドグマにすぎず、それを盲目的に信じこめは一個の迷信にすぎない。親鸞にとって阿弥陀仏とは教説でもなけれは観念でもなかった。

170p☆
 私は親鸞の前に、阿弥陀仏はかならずや、山河の姿をとって現われただろうと信じる。また、人間の生きる姿の悲しさとして現われただろうと信じる。親鸞にとって阿弥陀仏とは、人間も含めたこの世界という存在が語りかけてくる声ならぬ声にほかならなかった。つまり彼は絶対的救済者の現前を、たしかにひとつの肉感として覚知したのである。しかも、おのれの思惟や行為をこえた、まったく向うのほうからやってくる他力としてそれを感受したのである。

 親鸞は人間を含むこの世界の構造を、救いなき悪と覚知したのではなかったか。彼の悪の自覚は、説教坊主が説くように、わが身の悪をよく認識・反省し、そういう悪人たるわが身が生かされている不思議を思いみて、感謝の心をもちなさいといった、そんな程度の悪の認識なのではなかった。反省してどうにかなるような悪なら、そもそも救済は必要とせぬ。親鸞は現実世界内の倫理を説いたのではない。彼が必死に尋ねたのは、世俗世界を超えた次元での救済だった。

 宗教はこの世での人間の身の処しかたを説くものではない。むろんそれが世俗社会のひとつの構成要素として在る以上、宗教は独自の倫理体系を発達させることになる。しかしそれは宗教の本義ではない。親鸞はあくまで宗教者だった。宗教事業者、つまり宗教の宣布者・組織者だったのではない。宗教者というのは神を感受する人である。そして親鸞の場合神は、救いなき身という虚無の徹底的な覚知があって初めて出現した。そういう特異な神であった。

それは彼が、救済が先験的に拒絶されている世界の構造を覚知しながら、それゆえにこそ同時に、すでに救済されているもうひとつの世界の相を覚知したことを意味する。このあたりはまさに言語を超えた世界であって、それが、山河あるいは人間の生きる姿の悲しさとして現れただろうというのは、ただ私のひそかな思念にすぎない。

171p☆
 彼がおのれの見た絶対的救済者を阿弥陀仏に求めたのは、生涯法然(1133~1212)を師としてあがめた彼の仏僧としてのありかたに起因する。しかし、彼はひとつの教説を宣布しようとしたのではない。ただ、救済はすでになされているという覚知を人とともにし、そのことへの感謝のくらしを人とともに日々生きたかったのである。だから彼に弟子はなく、ただ同行の衆あるのみだった。


173p
 蓮如(1415~99)はこのような教団の嗣子として生れ、八世の宗主となったのである。彼が生まれたころ、本願寺は高田専修寺派、渋谷仏光寺派などの浄土真宗各派にくらべてはなはだ振わず、参詣の人もまれだったといわれる。しかし、「蓮如以前の本願寺の衰微・暗黒時代を想定」するのは誤りだと井上鋭夫は言う。

覚如の時代にも、また蓮如の父存如の時代にも、本願寺には衆僧のほかに坊官・家臣が住みこみ、その数は数十名に達していた。教線も歴代の宗主の努力によって、越中瑞泉寺、加賀本泉寺、越前超勝寺など、着々と北陸へ伸びていたのである。

 蓮如について多くを語る必要はあるまい。彼はたしかにすぐれた宗教者であったろうが、同時に宗教事業者たるべき星のもとに生れ、そのようなものとして比類ない力量を発揮したことを確認しておけばよい。彼の説いた教義は、阿弥陀仏の摂受によって往生は決定しており、一刻もはやくそのことに気づいて、ひたすら阿弥陀仏をたのむ心を起すことこそ安心決定であるとするもので、覚如によって確立された本願寺教団の教説を出るものではない。

ただその卓越した文才と横溢する人間味にあわぜて、山に猟をするもの、海に漁るもの、弓矢をとって武士に奉公するもの、鋤鍬をさげて大地を耕すもの、つまりあらゆる「われらごときいたずらもの」が、男女ともに南無と帰命するだけで救われると説く点において、彼の言説はすぐれて衝迫である。

175p
 文明五年、蓮如が門徒衆の一揆にゴーサインを出したのは、それを護法の一揆と位置づけたからである。蓮如は仏法に対する王法・世法の干渉をおそれた。そのため坊主・門徒に自制を説くとともに、つねに有力な外護者を求めた。この時点で彼は富樫政親を外護者に見立てていた。

「こうして専修寺派を圧倒しつつ本願寺の拡大をはかってきた蓮如は、その加賀における有力な保護者を富樫政親に見出したのであり、ここに本国を追われた薄命の武人と野心満々たる乱世の宗教家とは、幸千代打倒の一点において利害の一致を見たものとしなければならない」と井上が言うのは、よくことの一面を衝いている。

渡辺京二『日本近世の起源』122015年02月25日 00:00

『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

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第七章 侍に成り上がる百姓


148p-弓立社

 朝尾が「小領主層」というのは、戦国期の村落において、村落の自治組織たる惣の指導者として頭角をあらわす地侍のことである。侍といっても、それはあくまでも村落内での身分にとどまり、当時の社会的身分編成からいえば凡下、すなわち百姓の一員にすぎない。

また一方、彼が「幕藩領主」というのは、幕藩制における将軍・大名だけではなく、彼らの家臣として知行を給せられたいわゆる給人をも指している。つまり朝尾は、徳川期の武士階級は大名から家臣にいたるまで、基本的には戦国期村落の上層農民が成り上ったものだと言っているのだ。これは衝撃的な発言ではなかろうか。

 その成り上った彼らが今度は、「かつての自己を生み出した階層・基盤を否定し」たというのは、検地、刀狩り、身分制法令等を通じて、農民の被支配者的地位を確定・強化し、農民上層部のこれ以上の成り上りを禁圧したことを言うのである。つまり自分自身が百姓の出身であり、百姓の自己解放・社会的上昇願望の担い手であったのに、支配者の地位についた途端、自分の出身母胎である百姓の解放と上昇を否定したのであるから、「自己否定」というわけなのである。

154p☆
 村の侍衆が戦国大名の被官となっていったのは、「かれらが加地子等の得分の集積者であり、その取得を保障する体制を必要とした」からである。一方、戦国大名の方にも彼らを家臣団にとりこむ痛切な必要があった。

勝俣鎮夫は言う。「彼らは荘園公領制下の名主の系譜をひく地主で、郷村の指導者であり、領主の支配を下からきりくずしていたのであり、彼らこそ戦国時代の転換、戦国の争乱をもたらした主体的階層であった。戦国大名の軍事力は彼らをいかに多く組織するかにかかっていたのであり、また国の支配の成否は彼らをとおしていかに郷村を把握していくかにかかっていたのである」。

 つまり十六世紀という時代は、惣村内で侍衆という階層に結集した有力農民が、戦国大名の家臣団に組みこまれ、さらには織豊家臣団・幕藩制家臣団の中核をなして行く一世紀だったのだ。

『三河物語』には、松平家八代当主、家康には父に当る広忠が鷹狩の途中、御前衆にも連なるようなれっきとした家臣の、折から田植最中の光景を見かける有名な挿話がある。

その時くだんの侍は「破れかたびらを着、高端折に端折りて、玉襷をあげて、我も早苗を背負いて、目づらまで土にして行く」有様だった。家臣はこのような姿を主人に見られたのを差じ、広忠は家臣にこのような苦労をさせる自分を責めたというのだが、これこそ後年天下をとるにいたる徳川家の家臣団が、このように自ら農業をいとなむ村の侍衆だったことの動かぬ証拠というべきだろう。

159p☆
つまり織豊期の軍隊は、彪大な数の雑兵をその必須の梶成要素とするに至っていた。雑兵は足軽、武士の奉公人、陣夫の三つに大別される。その供給源が村落だったのはいうまでもない。惣村の地侍層が領国大名の給人となり、騎乗の武士と化したとすれば、おなじ惣村の平百姓はあるいは足軽となり、あるいは給人に仕える又者すなわち奉公人となって村を出たのである。

高木は、地侍層が大名の被官として出陣するとき、その家父長制的農業経営に隷属していた下人・所従が、彼らの又者として従う場合が多かったものと想定している。

 まさに十六世紀は「渡奉公人の花時」だった。たとえ雑兵として大名軍団に組みいれられたとしても、戦場の功名によって一人前の武士となる例にはこと欠かなかった。太閤秀吉は尾張国中村の貧乏名主のせがれだった。

その秀吉の軍団について、東北の大名南部信直は、文禄二(一五九三)年、名護屋に参陣したときの見聞として、「上(上方すなわち秀吉軍団をさす)にては小者をも、主に奉公よくなし候へば、則ちひきあげ侍にせられ候。それを見し者共、我おとらじと奉公仕り候て、それをさせるべきからくりに候」と述べている。すなわち秀吉の軍隊は、朝尾直弘の表現に従えば「下剋上を組織した軍隊」なのであった。

160p☆
 徳川幕藩制社会は秀吉の遺業のうえに成り立っている。その秀吉が尾張の平百姓の出で、草履取りという雑兵として閲歴の一歩を踏み出したことの意味は重大であるはずだ。宣教師カブラルが「百姓でも内心王たらんと思わないようなものは一人もおらず、機会次第そうなろうとする」と言うのは、むろん誇張の言たるをまぬかれないが、当時の民心の一斑を察するに足る。この書簡が書かれたのは一五九六年であるから、彼の念頭にはむろん秀吉の例があっただろう。

もちろん・秀吉を好例とするように百姓が武将に成り上ったとしても、彼をその一員として迎えいれた武士団は土地領主としての長い伝統をもっている。朝尾直弘がかつて強調したように、百姓の「身分変更闘争」としての武士化は、彼自身が伝統的武士団のイデオロギーに同化することでもある。

しかし、この場合肝心なのは、織豊武士団と伝統的武士団との異質さであるだろう。頼朝や尊氏は源氏の棟梁であるからこそ、武士たちから主人と仰がれた。ところが織豊武士団は、尾張の一平民百姓であったものをおのれの棟梁に戴くことに、何の違和も疑問も感じなかったのである。

 つまり織豊武士団はそれほど百姓的要素に浸透されていた。織豊期の軍隊は百姓を組織した軍隊だった。たんに雑兵が百姓だったというだけではない。将校クラスの武士から、軍団の長たる大名にいたるまで、百姓から成り上った者は珍らしくとも何ともなかったのだ。

惣村は中世後期にいたって、数々のきびしい軍事的経験を積んできた。その期間は優に二百年にわたっている。勝俣の言うように、惣村の武力を把握できるかどうかは、すでに戦国大名時代から興亡の鍵をにぎる重大事だったのである。惣村の出自だからといってその地位を差別し、能力を発揮させないような軍隊が、全国争覇戦を勝ち抜けるはずがない。

雑兵から武士、武士から武将への道は閉されていなかった。その階梯をかけのぼるのは当人の器量と実力のしからしむるところで、たとえ反感や嫉妬にまといつかれることはあっても、そのこと自体はまさに賞讃に値したのである。

164p☆
 三浦周行が南山城国一揆に一種の「国民議会」的性質を認め、その可能性を高く評価したのは不当とはいえない。だが、それを民衆一般と武士階級一般との対立と見なしたのは、とうてい当を得たものではなかった。国人層はあきらかに武上階級であるし、「土民」とされる惣村の成員のあいだにも、前述のように地侍層が成立していた。しかも彼らの背後には管領細川政元がいたのである。

 戦国末期に伊賀を中心として成立した惣国一揆について、久留島典子は「この惣国一揆と織田政権の戦いを、一揆的に結合する百姓と、主従関係を再編強化することによって成立した領主勢力との最終的戦いと評価することは可能なのだろうか」と問うている。

伊賀惣国一揆でもっとも一般的なのは「土地に付いて自らの零細な得分権を保持しようと結合する、土豪・地侍と呼ばれる者たち」すなわち小領主層の一揆であったことを確認した上で、久留島は「支配者が目の前に見える支配ほど、それは過酷な様相を帯びたのではないかという疑いを禁じえない。その意味では惣国一揆を過大に評価することについては慎重でなければならない」と述べている。惣国一揆が領主支配に対する農民の闘いなどではありえないことを歴史学研究者自身が認めた発言といってよかろう。

渡辺京二『日本近世の起源』112015年02月24日 00:00

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第六章 中世の自由とは何か

138p☆
 十六世紀の百姓が主従制を個別的人身支配として忌避したなどという左翼史学の主張が、自由・解放・人権といった近代的観念を過去に投影しただけの歪んだステレオタイプにすぎないことはもはや明らかだろう。個別人身支配とか隷属という概念には近代的世界観が強度に浸透している。

当の十六世紀人はこんな言葉を聞いても理解することさえできなかっただろう。本福寺の坊主は武家の被官になるのはいやだというが、そういう彼はれっきとした本願寺宗主の被官だったのである。主従関係一般を個別人身支配として忌避するような心性は当時の人間にはなかった。「かつての主従論争が展望をのこさぬままに終ってしまった原因の一つは、その対象を武士に限定し、或は少くともその典型を武士のみに求め、他はせいぜいその投影にすぎないとアプリオリに前提してしまったことにある」と笠松は言う。

十六世紀後半の日本の社会状況を、百姓を主従制のもとに隷属させようとする武家集団と、その腕から逃れようとする百姓の闘争として描き出すのは、社会全体に構造化して埋めこまれていた主従的組織原理を全く無視したフィクションといわねばなるまい。そのような組織原理とそれを受容する心性は、明治維新に始まる社会的文化的な変動過程がそれを非人間的非理性的なものとして廃絶するまで持続したのである。

 十六世紀は主従制の原理に生き生きとした生命が吹きこまれた時代なのかも知れない。下剋上の時代は主従制を否定したのではなく、形骸化した主従関係が、ひとの生き甲斐たる実質をそなえた新しい主従関係に組みかえられていった時代である。この時代の人びとにとって、仕え甲斐のある主(あるじ)をもつことがまさに当人の生き甲斐であった。専制的な支配―隷従はこの時代にはもはや通用しなかった。主は選びとるものだったのである。

140p☆
 もちろん、この時代の戦国大名が家臣団に対する専制を強化して行ったのは定説である。十五世紀に定着した有力従者たちによる衆議尊重という既成事実に対して、野心的な戦国大名がおのれの指導性を発揮するためには、重臣層の「中央の儀」的な行動様式を破砕する独裁の意志が突出する必要があった。

そういう革新的な独裁者たる信長は家臣に対して、信長一人の言うことに従えば間違いはないのだという、きわめて専制的な態度をとったといわれる。だがおなじようなことは、本願寺も門徒に対して言っている。すなわち、私の分別をせず上に言上せよ、「下として上儀を計らい候たぐい」は破門すると。むしろ信長はおれに任せなさい、おれは仕え甲斐のある主だよと言っているわけだろう。

なるほど信長は、家臣団の意志が主人を掣肘するという当時の主従制の構造を打ち破ろうとした。でなければ天下統一の事業が不可能だったからである。しかしまた一方、家臣は自分が仕え甲斐のある主人だからこそ従うのだということを、彼はよく承知していた。イエズス会の宣教師は、日本人は自分を侮辱した主人にいつか復讐すると言っている。光秀に襲われたとき、信長には自ら納得する思いがあったはずだ。

145p☆
そういう屈折を通してさえ表現されるものは、日本の主従制を貫徹する相互的誠実という暗黙の合意だった。暗黙の合意など情緒的で低級であり、契約であればこそ理性的で高級だなどというのは、人間のことも世の中のこともわからずに、頭脳に詰めこんだ出来合いの「近代的」視念で物事を裁断するある種の「研究者」だけが信じている妄念といわねばならない。

『三河物語』で語られているのは、わが主人・わが従者という相互の強烈な愛着である。その愛情がまた強烈な近親憎悪的相剋をも生みだすことは、近世当初の大名家においてしばしば見られた大名と重臣との対決の事例が示すとおりだ。家臣からすれば大名はともに戦って天下を取った朋友であり、わが殿という主人への敬愛は、とりもなおさずおれの主人という強烈な私有意識でもあった。このような藩主に対する所有意識は、徳川期の大名・家臣関係においてさえ濃厚に認められる。

 新しい実質を得て生れかわった主従制の原理は、武家だけでなくあらゆる社会階層において働いていた。徳川期はとくに主従制の原理が社会組織の生きた力として、社会の隅々にまで作用した時代である。主従制といえばすぐ隷属とか人身支配とか言いたがる近代的価値規を括弧に人れて、それが生きて働く力でありえた理由と実態を虚心に再考すべき刻がとっくに来ているのを、いま改めて強調する必要があるだろうか。

渡辺京二『日本近世の起源』102015年02月23日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

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第六章 中世の自由とは何か

122p☆-弓立社
中世農奴の性質については、西洋史学界でも自由人没落説と奴隷向上説の対立はあるものの、「原始・太古の人民の本源的な『自由』」なるものを何の疑念もなく前提できるような暢気な状況にはない。第一、原始・太古に「人民」がいたはずがないではないか。文化人類学の所見を尋ねても、原始人の自由なるものを学問的概念として措定するような段階はとっくに過ぎ去っている。

 要するに歴史上の「無縁」なる現象は、「人民」の自由度の歴史的変遷として通時的に意味づけるよりも、人類の文化に内在する二極構造の一極として共時的に読み解くのがはるかにふさわしい現象であろう。

俗・現世・日常・秩序・所有の極に対応するものとして、聖・彼岸・非日常・無秩序・無所有の極がいかなる時代いかなる地域にも潜在し、状況に応じて露呈し噴出する。しかし前者なくして後者は存在しえず、この両者の緊張をはらんだ均衡もしくは交替のうちに、人間社会の軌跡は描かれるのであって、有縁/無縁の対立も人類史を通じてつねに出現し作用する構造的二極なのであった。

125p☆
オットー・ブルンナー「すべての農民的自由はある保護領主の保護支配権のもとにおける制限された自由」なのである。この点を更にK・ボーズルに聞くならば、「社会の「下層」に「自由」が存在する場合には、それは国王(場合によっては有力貴族及び教会)によって与えられた『職務』ないし『課題』を根拠として作り出されたものであり、国王との間に直接的に結ばれた保護・奉仕関係として、それ自体が人身的な支配・隷属の一形態なのである」。すなわちそれは「非自由な自由」=「自由な非自由」にほかならなかった。

126p☆
 自由とはまたおのれの属する集団の特権を死守することである。ヨハン・ホイジンガ(1872~1945)に従えば、日本の近代史学が憧れてやまなかった「中世的な都市の自由」とは「最も狭い範囲に属する社会集団の利益のために他のすべてを犠牲にする自由」だった。

フェルナン・ブローデル(1902~1985)は中世において自由という言葉は複数形で用いられることが多いと指摘した上で、次のように言う。「『自由』という語は、このように複数形におかれると、『特権』とほとんど異なるところがなくなる。自由とは、特権【フランシーズ】(都市や団体や個人に賦与された特権)の謂であり、人間集団や利益集団はそれに守られ、その保護を笠に着て他の集団を攻撃した。それも多くは恥ずかしげもなくであった。」

 以上諸家の言述を紹介したのは、むろん西洋中世の話である。しかしへルマン・ハインペル(1901~88)の言うように近代は「古い自由の解体と共に始まる」のであれば、近代が生みだした自由を、それが解体した古き自由に投影することによって生ずるあらゆる言述は一切が無効であるほかはなく、その事情はわが国の場合においても変ることはない。

江戸人にとっての自由が、現代人たる今日の歴史家の頭に宿る自由の観念といかに距たり異質であるか、そのことに思いを致すならば、ましてや日本中世の人々にとっての自由を、今日の人民闘争的「自由」観の脈絡で論ずるなど、およそ歴史家の所業とも思われない。

 わが国中世の自由がわれわれの前提する近代的自由などとはいかに異質で、一筋縄ではいかぬしろものであるか、「身の暇【いとま】」という言葉に関する笠松宏至の卓抜な考裂を見ても明らかである。笠松によればこの言葉は、「供奉の御家人ら多く身の暇を賜って帰国す」とあるように、「肉体の物理的拘束からの解放」ばかりではなく、「もっと広い意味でよりメンタルな自由、安穏」を意味した。

ところが同じ言葉が将軍から家臣が死を賜わること、すなわち諌殺を意味する場合があったのである。この場合まさに「身の暇」とほ「託身保護関係の消滅であり、事実上の死の宣告であった」。笠松はこの両義性を中世における自由が現代的感覚からみれば、逆に不自由の表現である場合があることの一例とする。日本中世にあっても、自由は西洋中世同様イクォール保護・拘束を意味した。鎌倉御家人は将軍の保護のもとにあり、それは出仕の義務という拘束とセットであった。

「身の暇」が一時的に拘束を解くことである場合、それは近代的な意味での自由に近づくが、永遠に自由にしてやると言われれば、それは死ねということで、自由即保護喪失という機微は、かのフォーゲルフライの場合と何ら変ることはなかった。

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池上裕子は百姓の「被官化あるいは侍身分の形成は、一五~六世紀の村々にわきおこった・全国規模の運動、あるいは事象ではなかったか」と言い、「大名家臣への被官化も含めて、一郷村でおよそ一〇人前後、ときにはそれ以上の村民が侍身分への積極的転身をはかった」と推定している。

網野や朝尾に代表される、主従制イクォール私的隷属とする従来の左翼史学のドグマでは、このような史的事実は全く理解不可能となろう。また徳川期の民衆が熱狂的に支持した歌舞伎の主要な主題のひとつが、主従のきずなをめぐっての信愛と情緒だった事実も、おなじく説明に窮する仕儀になるだろう。

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ただ私は、主従関係が前近代にとって生の充溢をもたらす感情的源泉でありえたし、主人に対する奉仕が隷従とほど遠く、かえっておのれの尊厳と内面的自信を保証さえする場合があった事実を、いり組んだ学説史の詳細とは無関係に主張したいのにすぎない。

 というのは、明治維新前後に来日した西洋人は日本の主従関係がいちじるしく親密であり、従者は主人に対してほとんど保護者的感情をもって、主人にもっともよいと思われる処置をおのれの専断で計らうことにおどろきの目を見張ったのである。

私はこれが維新前後のみの現象とは思わないし、またヴィクトリア朝英国における主従関係がどうであったかは別として、とくに日本に限った話とも考えない。かのカズオ・イシグロの偉大な小説‘The Remains of the Day’の語る通り、二十世紀の英国でさえ、主人に対する奉仕と献身は従者の個としての尊厳の源泉でありえた。

そもそももっとも隷属的な主従関係であるはずの奴隷制においても、子守女、家庭教師等の仕事についた奴隷は自分が育て教育した子どもの深い尊敬と愛着をかちえ、両者のかたい結びつきは生涯にわたったのである。

 十六世紀という乱世において主従制が獲得した新しい意義について考える前に、室町期における主従制に関してふたつのことに注意しておきたい。ひとつは十五世紀に、家督決定における親権優先が否定され、親族一門、家老・宿老層の衆議による慣行が成立したことである。今谷明によれば「かかる親族家臣団の衆議重視は、笠谷和比古が"主君押込(おしこめ)の構造"で指摘した近世大名家の内紛収拾過程にも見られるところであり、室町・江戸社会を通底する慣行であった」。
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