渡辺京二『日本近世の起源』32015年02月16日 00:00

『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/弓立社

http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014

序章 日本のアーリィ・モダン

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 昨今の論潮では、徳川期の日本は資源のリサイクルを徹底した環境調和的な文明として、あるいは自然の美を活用した田園都市型社会として、文明の転換期にある現代が学ぶべき知恵と工夫の宝庫だといわれることが多い。それなりに意義のある主張とは思うものの、私の最も痛切な関心はそのことにはない。

私の関心は維新前後の西洋人のそれとおなじように、住民の親和感と幸福感にみちたひとつの調和的な社会が滅んだということにある。滅んだものは呼び返すことはできないし、その美点を学ぶこともできない。呼び返せないものを学んだからといって、ひとはどうすることができよう。

ただひとは、近代が獲得した美点をほとんど欠きながら、それが喪った美点をことごとく備えていたひとつの文明の姿から、人間の共同社会がとるべき姿は、何も今日そうなっているような極限的な"近代"のそれでなければならぬ理由はないのだと悟ることはできる。徳川期社会はそのように"近代"を相対化する視点をはぐくむものとして、今はわれわれの想起の対象となるのだと私は言いたい。

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 このような視点はマルクス主義史学によっても継承された。日本マルクス主義者は本質的に市民主義的民主主義者であって、資本制と一度たりと真剣に闘ったことがない。反資本制的な衝迫の弱さ、というより欠如は彼らの著しい特徴である。

彼らにとって闘うべき対象は天皇制を頂点とする伝統的権威主義支配であって、その意味で彼らは本質的にシトワイヤン、すなわち急進的市民主義者にすぎなかった。その典型は羽仁五郎において見出される。

戦時中の著作『ミケルアンヂェロ』から、大学紛争時の学生のバイブルとなった『都市の論理』に至る西欧的な自由都市と市民の理念の顕彰は、そのような図式が今日の西洋史学において完全に否定された妄想にすぎぬという点はのちに説くとしても、思想家としての彼の本質が何であったか証してあまりある。

 戦後マルクス主義は一貫して、十五、六世紀を農民階級と領主階級の闘争の時代ととらえ、古き荘園領主の地位を奪った武家領主階級によって農民階級が屈服させられる過程としてそれを叙述してきた。

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私の徳川期への関心は西洋モデルの近代化によって滅された一個の古き共同社会が、近代的理念と全く異なる心性と社会構造に立ちながら、なおかつ親和感と美にみちた文明でありえたこと、さらに言うならば近代そのものを相対化しうる自立した文明でありえたことにもとづいている。

そのような文明が、よりよき生と自治を求めて闘った民衆の庄殺の上に築かれたはずがない。徳川期社会をポジティヴに見直そうとするなら、当然全国統一政権成立に至る室町後期の歴史は書き直されねばならぬのである。

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 そのような全国統一政権成立過程の書き直しは九〇年代以来、現に進行しつつある。尾藤正英の『江戸時代とはなにか』(岩波書店・一九九三年)は、そのような見直しがもはや市民権をえたことを示す画期的な著作といってよい。尾藤は「労働の負担を中心として個人もしくは家が負う社会的な義務の全体を指すもの」としての「役」の観念に注目し、次のように言う。

「徳川氏の幕府は、自己の権力を維持することを第一義として、(中略)社会の秩序を凍結状態に置こうとし、実際にもそのことに成功した、という風に、この時期の歴史は説明されることが多い。しかし支配者の権力意志だけでは、ニ七〇年に及ぶ平和の持続を可能とした条件の説明としては、不十分であると思われる。

むしろ右にみたような「役」の体系としての社会組織を作りあげ、かつそれを強大な武力と法規との力により安定的に維持することをめざしたのが、この時期の支配者たちの主要な意図であって、それはある程度まで国民全体の要求にも合致するものであったために、その政策が成功し、その結果として政権の維持も可能になった、とみるべきではあるまいか」。