渡辺京二『江戸という幻景』32015年02月08日 00:00

『江戸という幻景』渡辺京二/弦書房

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5 いつでも死ねる心


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篠崎仁三郎は夢野久作が『近世快人伝』で取りあげた博多魚市場の名物男である。明治二十年前後に二十三か四だったというから、生まれは慶応あたりだろう。この男とその仲間たちも死ぬのは一向に平気という連中で、生きたのは明治という「聖代」であっても、その飄逸で突き抜けた気分は、まさに江戸時代人の気性の一斑を表している。

 仁三郎によれば博多っ子たる資格は五つあって、一に十六歳にならぬうちに柳町の花魁を買うこと、二に身代構わずに博奕を打つこと、三に、生命構わずに山笠をかつぐこと、四に出会い放題に××すること、五に死ぬまで鰒(ふく)を喰うことである。××はご想像に任せる。今ではこういう馬鹿はいませんと晩年の仁三郎は語るが、要するにこの連中は、たかをくくって自分の短い一生を笑いのめし、しゃれのめし、騒ぎまくろうというのである。自分の生を馬鹿にする点では、宮崎滔天の説く肥後のわまかし精神にも通じる。

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 仁三郎は博多っ子の資格のひとつに、死をおそれずに鰒を食うことをあげているが、この男の父親はようやく乳離れしたばかりの仁三郎の口に、鰒の雄精(しらこ)を入れてやったものだという。「馬鹿なことばしなさんな。当たって死んだらどうしなさる」とかみさんが言うと、「あまいことを言うな。鰒をば喰いきらん様な奴は、博多の町では育ちきらんぞ。今から慣らして置かにゃ、詰らんぞ。当たって死ぬなら今のうちじゃないか」と怒鳴りつける。当たって死ぬなら今のうちとはいったい何事であろう。児童の人権というものを知らぬのかと、いきり立ちたい気がしないでもないが、この親父、人権が長生きすることだとは毛頭考えていない。人権とは男(もしくは女)を立てることであり、それで死んでも本望なのだった。

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 ただこのことは言える。在りし日の社会の雰囲気は、自分の生き死にの意義を徹底してつき詰めるようには出来ていなかった。酔生夢死のような生涯を送ったから、シュシュシュシュポンポンポン、うわあい、といった一生を送ったから、いつ死んでもよかったのだというのでは理解はまだ浅い。江戸時代に志を立てて営々と努めた人物は沢山いる。そういう人とて、死を前にあわてることがなかったのは仁三郎とおなじだった。竺p時代の後半、人びとの意識は自分の人生と社会ならびに自然との調和的呼応という点では、ある極点に達していたようだ。中世のように死と生を徹底して見据える視線は消失した。江戸の面白さは徹底を回避して、とことんはぐらかすところに生まれる。野暮天とははぐらかしのためのキーワードではなかったか。

 小西来山は十七世紀後半の俳人で、摂津国の人。辞世は「来山はうまれた咎で死ぬるなりそれでうらみも何もかもなし」と伝わる。すこぶる超脱の風があったというが、なるほどこれは一種の悟達だろう。『雲萍雑志』の伝える正念坊の辞世「来て見ても来て見ても皆同じことここらでちょっと死んで見ようか」も似たようなもので、気分は明治の魚屋篠崎仁三郎とあきらかにひとしい。江戸人はこのような一見さばさばとした覚悟を粋と感じた。なぜ死なねばならぬとこだわるのは野暮の骨頂であった。考えても仕様のないことを考えるのは無意味なこだわりでしかない。こだわりを突き抜けてこそ人は粋であった。だが来山の狂歌が一種のはぐらかしであるのは否みようがない。生まれたから死ぬのだとあっさり納得して死んでゆく一介の老農夫がいるとすれば、それはわれわれの目からしても尊敬と羨望に値する。しかしその覚悟を文として表出すれば、それははぐらかしとなる。なぜなら文は思考であり認識であって、死には理屈もなければ子細もないと言っている来山は、たしかに突き抜けた覚悟は表白しているものの、思考と認識はその時点で閉ざされるからである。

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 私はいま、何がゆえに在りし日の文明が滅び、近代にとってかわられねばならなかったかという問題のとば口に立っている。この巨大な問題にひとつの切り口で答えることはできない。だがささやかな切りロをひとつ示せば、人間はいつまでもはぐらかしを続けるわけにはゆかぬのである。夢野久作は快男子篠崎仁三郎の言動を紹介するに当たって、現代人の神経衰弱を吹き飛ばす良薬と言っている。なるほど利き目はあるだろう。われわれはたしかに仁三郎にかんがみて、おのれのこだわりを相対化してよいのである。しかし物事には反面というものがある。さわやかに南京花火的生涯を駆け抜けた仁三郎は、同時に人生にははぐらかすことのできぬものがあるという事実から、ひたすら逃げまくったのではあるまいか。

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橘南谿は薩摩の国柄についてこう書いている。
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「すべてこの国は、武士はさらにもいわじ、町人、百姓といえどもあばれものは格別の事、趣意ありれ刃傷に及べるは、いかほど大なる喧嘩といえども捕手の役人来る事なく、人を切りたる者を搦め取るということもなく、ただ、官府には知らず顔に捨て置き給うなれど、人を殺したる者の逃走という事はむかしより一人もなし。皆、相手死すればいさぎよく切腹して役人の世話になる事なく、死せしあとにてその所より役所へ届けありて事すむなり」。人を殺せば自分も死ぬという倫理が実行されていたのである。人を殺しておいて自分には責任能力がないとする言い訳はまだ発明されていなかった。

 彼は天明二年八月、自分が鹿児島に滞在していた時の見聞として、次のような話を伝えている。南谿の泊った宿の隣りに、丸山干七という商人宿を営む年は二十一、二歳の町人が住んでいた。大身の侍の若党とロ論して散々辱しめられ、ついに若党を斬り倒した。さいわい若党は傷が急所をはずれていて命をとりとめたが、親類ども集まって、町人から手を負わされ疵養生して助かったなどと、人からうしろ指を差されるのも不本意ゆえ、切腹させようと評議一決、若党も「もっとも至極」と同意して即日腹を切った。このことが謹慎中の千七に伝わると、親類朋友呼び集め、ねんごろに暇乞いして友人の喜八に介錯を頼み、実盛の謡を高らかにうたい終えて腹を切ったが、両親兄弟始め一滴の涙も流さず、「みごと、みごと」と声をかけてほめはやした。これは南谿が隣家にいてつぶさに見たことである。

 いさぎよいというか、かねて教えこまれた約束事に忠実というか、この世にほとんど未練というものがないように見える。未練がないはずがない、ただ時代の道徳というものに縛られて、おのれの真実を庄し殺しただけだとするのが、芥川や菊池寛の大正心理主義というものだ。しかし事実の単純さは、こういう現代人のヒューマニズムによる理解を超えているように私には思われる。彼らはおそらく来世というものを信じていたに違いない。それだけにこの世は仮の宿りということを、われわれよりもずつとよく承知していたに違いない。

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 もっともこの頃の人は、死よりも大事なことがあると信じてもいたのだ。これも南谿の伝える鹿児島の話で、武士四人が同道して近村へ出かけたが、途中一人は用あつて寄り道し、三人で往くうちに二人の侍と出会つて喧嘩となり、二人を切り伏せてしまつた。追いついて来た一人に事情を説明し、君は何も知らぬのだから身を退き給えとすすめると、その男矢庭に刀を抜いて倒れた屍をずたずたに斬り裂き、「我とても初より同道せし今日の連なり。此場におくれたりとて独りのがるべきにあらず。また、わが刀をかくのごとく汚せし上は同じく喧嘩の相手なり」と言つて、連れ立ってわが家へ帰り腹を切ったという。これは朋友の義を命より重しとしたのである。人を殺した場合、司直の手を煩わせずに自裁するというのも、いざというときに倫理すなわち人の道を第一にする心がつねづねあつたからだろう。喧嘩で人を殺した者は自分の命も捨てねばならぬというのは人の道の根本であった。でなければ殺し得、殺され損になるからである。人の道は命より重かつたのである。