渡辺京二『江戸という幻景』82015年02月13日 00:00

『江戸という幻景』渡辺京二/弦書房

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11 法と裁判

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 文政年間にオランダ長崎商館にいたフィッセルは、日本の裁判の厳しさについて述べ、続いてこう書いている。「しかしその厳しさは社会のあらゆる階級に対して平等である。そして裁判は最も厳格なる清潔さと公平さをもって行なわれていると推量されるだけの理由はあると言えるであろう」(『日本風俗備考』)。このような言述は今日の私たちの「常識」をとまどわせるかもしれない。しかし、安永年間におなじく出島に在ったツュンべりも、日本のように「法が身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は他にない」(『江戸参府随行記』)と断言しているのだ。

 むろん江戸時代、法の適用や重刑が身分を問わず同一だったなどということはない。大名身分ひとつとっても、彼らは殺人などの非行を重ねても、武士のように切腹させられたり、庶人のように斬首に処せられたりすることはなく、領地を没収されてお預けの身になるか、場合によっては隠居ですむこともあった。ではフィッセルやツュンベリは何を言いたいのだろうか。おそらく彼らは法を犯した大名や役人が確実に処罰される点を、平等とか、身分に左右されないと表現したのであって、そのことならば、彼らは決して観察を誤ってはいなかったのである。

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 江戸時代の裁きはその時代の正義観念と人情とのかね合いを計って、すこぶる自由裁量の余地があったようだ。寛成の頃、江戸近在で子どもが正月のドンドの真似をして誤って家を焼くということがあり、町奉行石河土佐守の裁きにかかった。奉行所より呼び出しがあって両親出頭したところ、たとえ小児のあやまちにせよ家を焼いた以上火刑に処すと申し渡され、泣く泣く門前で死骸を引きとろうと待っていたら、子どもは元気で出て来て、見ると頸筋に大きな灸のあとがあった(山田三川『想古録』)。

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 山田三川はまた次のような話も書き留めている。天保七年十一月十二日の夜、昌平橋内の鍋町に火事があって、縦三間横二町の町並が焼けた。火元は酒屋で失火の届を出したのに、三十三、四の女が町奉行所へかけこみ、自分が放火したと申し出た。数十人の死者が出たゆえ、その罪のがれがたいと覚悟したというのだ。奉行が事情を訊くと、酒屋は自分の叔父で、物価騰貴のこの節母を養いかねるので三両の借金を申しこんだのに、貸してくれぬばかりか他人の前でさんざん悪口されたので、くやしさのあまり付け火したのだという。調べてみると女の言う通りだった。奉行は女の孝心を哀れんで、親を養う金三両を貸し遣わすから、毎年一朱ずつ返納せよ、返納し終ったときに火刑に処すと言い渡した。三両の金を毎年一朱返金して皆済するには四十八年かかる。そのとき女は八十を越しているのである。実質的な免訴であった。

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 浅草通で、番所交替の鉄砲足軽行列の中を、町人が抑し割って通ったので、足軽たちが鉄砲で打ち叩き死に至らしめた。奉行所は「総じて供を割りたる考、切り捨てたらんには子細なし。ことさら町人の事なれば論に及ばず。然るに鉄砲はその主人の預る大切の番所警衛の道具なり。それを以って人を敲き殺ず条法外なり。右の罪遁れ難し」とて、足軽二人を牢舎に入れ相当の罰を加えたという(『翁草』)。これもまさにこの時代特有の衡平の感覚である。行列をみだす者は切り捨ててよろしいというのは建て前であって、建て前は破るわけにはゆかぬ。しかしこの大典を文字通り行なっては、いかにも殺された方に不公平の感がまぬかれない。従って法執行者は鉄砲に因縁をつけて足軽を罰し、衡平がそこなわれるのを防いだのである。まさに江戸時代ならではの判決であろう。

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 また江戸時代には、子どもの嘆願によって刑が軽減されるということもあったようである。馬琴が『兎園小説』に録しているのでは、寛政文化の間に軍書を講談した瑞竜軒にこのことがあった。当時『中山物語』という俗書が行われ禁忌に触れることが多いとて禁書になっていたが、瑞竜軒がこれを手に入れて講じたので連夜の人だかり。遂に捕えられて、遠島になろうとの評判である。ところが彼に十二、三の娘がいて、奉行所にゆく度に親の罪にかわろうとねがい、「哀傷悲泣人の視聴を驚かし、追い立てらるれど心得退かず。死をだにも辞せぬ有さま」であった。判決は江戸払い。娘はある豪家に乞われて嫁となり、瑞竜軒はその家から扶助されて近郷で余生を送るを得たという。果して判決が娘の孝心のせいだったかどうか、これはわからない。もともと江戸払いぐらいが相当の事件だったのかも知れない。しかし世人は全くもって娘の孝心のせいと信じたし、司直の方にも孝心を嘉して、判決に手心を加えるぐらいの用意はいつでもあったのではあるまいか。

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 ちなみに大木雅夫の『日本人の法観念』は、江戸時代とくに元禄以降訴訟が激増し、幕府が「健訟の弊」に苦慮した様をつぶさに述べ、「江戸京大坂その外繁華の地の町人遊人等は居ながら公事出入をいたし、いささかの事をも奉行所へ持ち出して埒を明くるなり」という『世事見聞録』の一節を引いている。大木が引いていないところを参考までに引くと、著者武陽隠士は「また関東の国々別して江戸近辺の百姓、公事に出る事を心安く覚え、また常に江戸に馴れ居て奉行所をも恐れず、役人をも見透し、殊に何角(なんのかんの)の序(ついで)にとかく江戸へ出た(が)る曲有りて、ややともすれば出入を拵え即時に江戸へ持出し、また道理の前後もよくよく弁えて心強く構えたるもの」云々と言つているのである。

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 その後吟味の折、その方、女房に追い出されて江戸表へ参ったそうだなと、鎮衛が口を滑らしたものだからたまらない。たちまち甚右衛門の顔色が変った。「江戸表は知らず、甲州に夫を追い出す女もなく、追い出され候男あるべきようなし」と喰ってかかる。つむじが完全に曲ったのである。さてこのあとは、「たとえあらぬ噂にせよ、下につくべき女房に追い出されたと言われて腹が立つなら、上に立つ公儀の裁許を下の心に叶わずとて我意を張るのは通るまい。夫婦上下の礼を知りながら、私をもって公儀をしのぐその心がわからぬ」と鎮衛が説得して、遂にこの強情者に口書に印形を捺させたという手柄話になるが、いったん曲った臍をもとに戻すには鎮衛もさぞ奮闘せねばならなかったことだろう。取調べ役はこのように百姓に気を遣い、場合によってはほとんど機嫌をとらんばかりだったのである。

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 逆に百姓は意気軒昂たるものがあった。
大木雅夫は「それ百姓と云もの、元来性癖にして、すさまじきものなり。……百姓の公事は、武士の軍戦なり。百姓は戦う事叶わざる故に、公所へ出て命を諍う」という田中丘隅の言を引き、「かれの描く『すさまじき』百姓像は、権威に屈従し、憐みを乞い、諦念に生きる江戸時代の農民というたぐいの通俗的な――あるいは特定の史観に呪縛された学者たちの――百姓像とはまるで違っている」と言う。美濃郡上一揆における百姓たちの行動を思えば、また山中村甚右衛門の法廷での態度を見れば、丘隅の言が奇矯ではないのをわれわれもまた知ることができよう。

 いわゆる百姓一揆についてはこの本では取り上げない。取り上げたら大変なことになるからだ。しかし保坂智の研究によって、この分野でも新しい知見が拓かれつつあることだけは言っておきたい(保坂智『百姓一挨とその作法』その他)。保坂は通説の多くの誤りをただしているが、中でも、越訴は幕府によって事実上受理されていたし、罰されても軽罪だったことを明らかにしたのは鮮やかだった。通説は越訴は禁じられ、犯せば獄門、磔と説いていたのである。ただし故平松義郎は遺著の中でさすがに、「『駕籠訴』の刑は一般に軽く、急度叱りの程度であった」と書いていた。

 保坂の説くところでは幕府が禁じたのは徒党・強訴・逃散で、徒党は強訴・逃散の前段階だから、実質は強訴と逃散のふたつが非法ということになる。しかし徳川期を通じて強訴・逃散はたえず行われ、処罰は重い場合もあり軽い例もあり、全く処罰されぬことすらあった。建て前は不法であり、処罰されるにしても、徳川期の社会は強訴・逃散をあるべき現象として組みこんだシステムだったといってよい。なぜなら、一揆は決して藩公の支配を否定するものではなく、藩公の仁心を覆う悪臣の所為を糾弾するものと百姓自身に意識されていたからである。彼らが要求したのは百姓相続の保障、すなわち現体制下での百姓身分の存続であって、それ自体何ら違法性を含まず、ただそれを実現するには強訴という違法行為に訴えるしかなかった。ただし百姓は一揆の違法性とはただ形式にすぎず、その精神は支配者の説く正義とも合致すると信じた。それゆえに彼らは誇り高い存在だったのである。

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『鸚鵡籠中記』の元禄十六年七月二十六日の項には、「頃日、尾州の百姓数十人、佐田弾介処にて云い渡しを聞きて大いに笑い、ときの声をどうと揚げたり。すなわち頭取五人籠舎」という記事がある。佐田弾介というのは代官であろうか。私はこの記事が気になって仕方がない。そんなことをすれば仕置が待っているとわかっているのに、申し渡しをどっと笑ってしまう百姓。江戸時代は百姓像ひとつとっても、まだわれわれには未知の時代なのである。