渡辺京二『日本近世の起源』42015年02月17日 00:00

『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643


第一章 乱世とは何か


030p-弓立社

 宣教師が見た頃の日本は、女性のありかたという点では幕末期よりはるかに自由だったようだ。フロイスが描き出す織豊期の女性像は、われわれの常識を覆すような意外さにみちている。すなわち彼の言うところによると、日本では妻は自分の財産を保有し、夫に高利で金を貸しつけるし、しかもしばしば妻の方から夫を離別する。妻も娘も、親や夫にことわらず何日も好きな所に出かける自由がある。外を歩くときは「夫が後、妻が前を歩く」。

 フロイスの「日欧文化比較口はいわゆる topsy-turvydom(あべこべ)ものに属する。幕末明治期に訪日した欧米人は日本と西洋の習慣が逆になっている点に注目し、それを好んで話柄にした。チェンバレンも『日本事物誌』にこの一項を設けているくらいだが、フロイスの著作はそのもっとも早い一例である。

あべこべの事象を多く列挙するためには誇張が避けられず、従って前掲のフロイスの観察は誇張されている可能性もある。しかし同時に、この書が topsy-turvydom の視点に立っているということは、彼の記述がつねにヨーロッパとは逆にという前置きを伴なっていることを意味している。つまり、誇張はあるにせよ、前掲の日本女性の行動様式は、同時代のヨーロッパ女性との対照において、際立った特徴とフロイスには感じられたのである。

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 ヒロンは一五九四年に来日して、一六一九年までは長崎に住んでいたことが明らかなスペイン人であり、職業は商人と推定されているが日本人の性向を「傲慢、尊大、怒り易く果敢」、「残忍非情で一般的には貪欲かつ吝薔」と特徴づけている。慇懃丁寧でユーモアにみち、非の打ちどころのない紳士と評された幕末期の幕吏とはなんという違いであろう。

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 ロドリーゲスは「彼らが人間の身体を切ることに快楽を覚え、そういう性向を持っていること、そして幼少の頃から機会あるごとにそのことをいかに練習するかということになると、ただ驚くのほかない」と言い、

ヴァリニヤーノは「はなはだ残忍に人を殺す。些細なことで家臣を殺害し、人間の首を斬り、胴体を二つに断ち切ることは、まるで豚を殺すがごとくであり、これを重大なことと考えてはいない。だから自分の刀剣がいかに鋭利であるかを試す目的だけで、自分に危険がない場合には、不運にも出くわした人間を真二つに斬る者も多い。

戦乱の際には民家を焼き民衆を殺戮し、その偶像の寺院といえども容赦しない。立腹した為、あるいは敵の掌中に落ちない為に自ら腹を断ち切って自害することも容易に行なう」と書いている。

 要するにこの頃の日本人ははなはだ血なまぐさかったのだ。

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 つまりここに現われているのは、自負心と野心にみち、変転する状況に権謀をもって対処しようとする、きわめて戦闘的かつ自己顕示的な人間類型といってよかろう。ヒロンは「この王国には変転しないものは何ひとつなく」、一国の領主が明日は下僕におちぶれ、今日は貧しいあわれな男も、明日は町のお歴々となると記している。

またフロイスは「今日、強力で権力があった者が明日にはもう何でもなくなってしまい、今、まったく安静であるところが数時間後に何もかも転覆し動揺と混乱の坩堝と化す」と言う。まさに世は戦国乱世であり、その中で生きる人びとの目には、下剋上という常套語が示すとおり、機会と野心に鼓舞された荒々しい火が燃えていた。

それに反して幕末、長崎に来航したロシアの作家ゴンチヤロフが見たのは、「喰って寝るだけ」しかしないらしい、「夢見るようにぼんやり」とした日本人の相貌だったのである。

 しかし宣教師たちの記述のうちでもっとも衝撃的なのは、当時の日本の貧しさである。ヴァリニヤーノが書いている。「一般的に言って、不毛と貧困は東洋全域で最もはなはだしい。……ほとんど商品らしいものは何もない。……一般には庶民も貴族も極めて貧困である。ただし彼らの間では貧困は恥辱とは考えられていない」。「領主や貴人でさえ打ち続く戦乱に関与する為、また彼らにはその主食である米を産する土地の一部を自分の為に保留しておく以外は、他の税収入や権利は何もないので、はなはだ貧しい」。

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 ヴァリニヤーノが第一回日本巡察を行なったのは一五七九年から八二年にかけてであり、『日本要録』(邦訳名『日本巡察記』)が書かれたのは八三年だった。巡察の範囲は九州と近畿である。安土城はすでに七六年に築かれており、ヴァリニャーノは城に招かれてその壮麗さに一驚し、信長に讃辞を呈しているのだ。にもかかわらず彼は上述のような判断を下しているのである。

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 藤木久志の『雑兵たちの戦場』によれば、農民は放火掠奪をつねとした当時の戦争形態の犠牲者であったばかりではなく、彼ら自身が戦場を稼ぎ場と心得る常習的な戦闘者だった。鉄砲という新兵器の出現と、築城その他土木工事の必要の増加は、必然的に部隊編成におけるいわゆる雑兵の比率を高める。

戦国後期の軍隊は、騎乗する武士一割に対して、九割が雑兵という構成になっていた。この「侍・中間・小者・あらしこ」などと呼ばれる「奉公人」は百姓の出身、あるいは百姓そのものだった。朝尾直弘のいうように、十六世紀はまさに「渡奉公人の花時」だったのである。

 しかも藤木によれば、「戦場は、春に飢える村人たちの、せつない稼ぎ場」であり「生命維持装置」だった。放火掠奪はそういう雑兵たちの戦場での稼ぎ働らきだったのである。農民にとって、いつ刈りとられ焼き払われるかわからぬ田畑は、労力の投人しがいがなかったにちがいない。だがそれだけではなかった。彼らはまた、田畑は老人や女こどもに任せて、もっぱら戦場をかけめぐる戦闘者でもあったのだ。ロドリーゲスが「耕作のことには甚だ怠慢であり不精」と評したのは、こういう彼らの荒々しい生態を知ってのことではなかったか。

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 ヴァリニヤーノがこの国には商品らしい商品もなく、領主から民衆にいたるまで貧しいと述べた理由、また彼のみならず大多数の宣教師が、百姓までが天下人たろうと望むほど野心にみち、そのためには術策と譎詐によって相手を欺くことを辞さぬといったふうに日本人のイメージを描き出した理由を、私たちはいまこそ得心できる。
 
それは全般的なアナーキーの時代だった。だがロドリーゲスが主張したかったのは、当初彼らが目にした無法な状況が、日本の歴史上の常態ではなく、きわめて異常な変態なのだということだった。彼は大著『日本教会史』において、日本史を三期に区分する。

第一の統治形態は「日本に固有で真実なもの」であって、「国全体が真実の国王に属し、儀礼や風習が守られていた」。公家階級の貴族は王国を統治し、武家階級の貴族は国王の護衛と王国の防衛に当った。この形態は一三四〇年まで続いた。

第二の統治形態は足利尊氏が「王国の統治と収益を横領し」たことによって開始される。これは分裂と戦乱の時代であり、一五八五年に終った。これは秀吉が関白となった年である。

第三の統治形態は信長によって開始され、秀吉と家康によって完成されたもので、「王国全体が平和裡にただ一人の頭首の下におかれる」という意味で、第一期のそれに似ている。