渡辺京二『江戸という幻景』62015年02月11日 00:00

江戸という幻景』渡辺京二/弦書房

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7 風雅のなかの日常

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 当時の人びとの暮らしよう、とくに庶民のそれがいたってシンプルだったのはいうまでもない。そのことはまた、心根がシンプルであるのを意味した。高村光太郎の父高村光雲は明治彫刻界の重鎮である。嘉永五年の生まれで、御一新の際は数えの十七だったから、旧幕時代の暮らしについては十分語る資格があった。その光雲が次のように回顧している。

「現代ではただの労働者でも、絵だの彫刻だのというようなことが、多少とも脳にありますが、その頃はそうした考えなどは、全くない。早い話が、家のつくりのようなものでも、作りからして違っている。今日ではドンナ長屋でも床の間の一つ位はあるけれども、その時代は、普通の町人の家には床の間などはない。住居でも、衣食のことでも、万事大層手軽なものであります。何でも手に一つの定職を習い覚え、握りっ拳で毎日幾金かを取ってくれば、それで人間一人前の能事として充分と心得たものです」(『幕末維新回顧談』)。「どうもこの頃の職人の生活などはすこぶる呑気なもので、月に一両二分もあれば親子五、六人は大した心配もせず、寝酒の一合ずつは飲んでいけた。

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 光雲の父は晩年は楽隠居の身分となったが、元来手先が器用で人形や玩具を作るのが巧みな人で、還暦をすぎていろんな虫の細工物をこしらえ始めた。バッタやら赤トンボなど、本物そっくりに作りあげると、浅草田圃へ行って葦の葉をとってきて、それに虫をとまらせて悦に入っていた。そのうち、それを人出のある所へ行って並べてみると、通りすがりの者が買ってゆく。老人はその売り上げでお土産を家に買って帰るのが娯しみだった。老人にとってこれは商売ではなかった。自分の趣向を人様がよろこんでくれるのが嬉しいのであり、またお土産を家に持って帰るのが自慢なのだった。この時代の人びとの幸せはこういうところにあった。決して?い一生というだけではなかった。栖落っ気と風流な気分は、一介の庶民の一生にも優雅な花を添えたのである。

135p
『続近世崎人伝』は岸玄知という出雲侯の茶道方が梅樹を買った話を載せている。ある時郊外に遊んで、農家の傍らに梅が見事に咲いているのを見て、大金を与えて買い取った。しかし花の下で酒を酌むばかりで、梅の樹を持って行こうとしない。農夫がいつ移植するのかと問うと、わが家の庭は狭くて、こんな木を植える余地はない、ずっとここに置いておくと言う。それなら実がなりましたら届けましょうと言うのに玄知曰く、「吾は花をこそ賞すれ、実に望みなし、汝これをとれ」。農夫がおどろいて、ただ花を見るためなら、いつでも何日でもおいでください、お金はお返ししますと言うと、「人の花は見て面白からず、わが花にしてこそ興あれ」と玄知は答えたという。

136p
村尾嘉陵は清水徳川家の広敷用人を勤めた人で、休日ごとに近郊を探訪して紀行文を残した。

139p
 嘉陵にとって浅間山とは何だったのだろうか。彼は美景を楽しんだのではない。山は眉墨のように遠くにしか見えなかったのだ。彼はただ浅間が恋しかった。恋しい人は遠くからでも一目見て胸に刻めばよいのである。世に高士英傑あリと聞けば、遠路を遠しとせずに訪うたように、当時の人は名山ありと知れば、一目でもそれと逢いたかった。登るわけではない。画に描くのでもない。ただあいまみえればよかったのだ。彼にとって名花も名刹も名山も一期一会の友であった。そういう出会いの積み重ねが生きるということだった。彼は蒐集家のように名所旧蹟のスタンプを集めたのではない。花にせよ庭園にせよ神社仏閣にせよ、あるいはささやかな言い伝えの残る旧蹟にせよ、それらは世界が彼に開示してくれる生の秘蹟だったのである。彼の目はあだおろそかにうろついてはいなかった。凝視があり、感銘があり、こみあげる万感というものがあった。

144p
 江戸の郊外は訪なう人を裏切らぬ様々な情趣を備えていたらしい。十方庵は豊嶋郡徳丸が原は春になると一面に桜草が咲いて「佳興絶品」だと言っている。また葛飾郡の弐十五村はたてよこ一里の間桃林ならざるはなく、花時は世に名高い杉田の梅林の比ではないという。名物をあげれば、多摩郡宮本村の相生の松、那賀郡春貞寺の七種咲きわけの梅、足立郡芝村には三股の竹、水戸侯上屋敷には四方竹、小石川松平播磨守上屋敷の藤ときりがない。大久保百人町の同心組屋敷は束の木戸より西の木戸まで八町余り、いろとりどりの躑躅に埋まる。中でも飯嶋という同心の家は東西八間、南北二町余にわたって両側に躑躅が列をなす。青山百人町の同心組屋敷は高燈籠で名高い。例年盆のあいだ長い竿を何本も継いで燈籠を掲げ、その高さを競いあう。遠くから見れば空にきらめく星に似るというので、異名を星燈籠という。人びとの一生はこのような景物に彩られて過ぎた。名花も美景も、観る人を選びはしなかったのである。


8 旅ゆけば


153p
旅人の感懐をそそったのは各地の売春の形態であろう。出羽国の温海(現山形県)では、娘のいる家ではみな娘を遊女に出すのを習いとしており、これを浜のおばと呼ぶという(真澄『秋田のかりね』)。繁太夫が越後高田で見たところでは、当地の下女は「昼の内用向きを片付け、夜五つごろより隙をもらいて泊りに出る。夜明けて帰る」。二百文くらいでからだを売るのである。夜は外に出さぬという堅い家には、下女が言い合わせて奉公に来ないので詐すほかない。下女どころか、相応の女房娘も出ると繁太夫は言っている。

 野田泉光院は長崎では娘を娼家に売るのを名誉と心得、娘をほめるのに、このご息女は三百目のご器量とか五百目の御顔色などと言い、親はそれを喜んでいると呆れ顔である。これは少々えげつないにしても、この時代の人びとの意識においては、遊廓といい遊女といい、それほどさげすむべきものではなかった。堺奉行土屋廉直の妻斐子は、東海道赤坂の宿で、遊女たちが三味線や笛で客の朝立ちを見送る光景を「艶なるあけぼのなり」と観た。また小田宅子は新吉原のおいらん道中を見て、「見るだにも心浮かるる面かげを誰が河竹のしづむといふや」と詠んでいる。遊女の身が悲惨とは露思わなかったのだ(柴桂子『近世おんな旅日記』)。頼山陽が母静子を島原の遊廓に登楼させ、花魁を総あげして盛宴を張ったのは有名な話だ。静子もこの遊びがたいそう気に入った(中村真一郎『頼山陽とその時代』)。清河八郎も江戸に遊んだ時、母を伴って吉原の大楼に登っている(『西遊草』)。遊廓は龍宮城のようなもので、女性が一見しても恥にはならなかったのである。
154p

161p
 馬琴がかねて恩顧を蒙る某侯の家臣に、山本郷右衛門という足軽がいた。寛政四年、この者が飛脚として江戸に出て、またみちのくへ帰る折、奥州街道鍋掛の宿を通ると、はずれの坂に粗末な小屋がかけられ、父親と娘がその中にいた。これは回国の者で、父が重病で倒れ命も危うかったので、宿の者たちが憐れみ、小屋がけして親子を入れたのだという。少女が道行く者に袖乞いして露命をつないでいると聞いて郷右衛門、二朱銀一片に薬を添え、楊子挿しの袋に入れて与えた。その後寛政八年、郷右衛門はまた飛脚をうけ承って江戸に出、ある日誘われて新吉原江戸Wの丸海老屋という青楼に登ったところ、夜が更けてから清花という妓から果物が届いた。心当りのさっぱりない郷右衛門、清花なる妓と会ってみたところ、それが鍋掛の宿で施しをした少女だったのである。何よりも与えた楊子挿しの袋が証拠であった。

162p
 話を聞くと、この親子は越後高田の者で、母が長病で亡くなった頃、ひでりやら水損やらで暮しの立ちゆかなくなった父親が、なき人の菩提のためとて、娘を連れて回国の途についたのであった。施しを受けたあと間もなく父は世を去ったが、御顔をよく覚えておいて、再会の折には御礼申せと少女に言い聞かせていた。「はじめかの鍋掛にて、御身に会いしは、十四のときにて、本の名をそよといえり。あじきなき世にながらえて、はや十八になり侍り」と言って、娘は泣いたということだ。