渡辺京二『日本近世の起源』22015年02月15日 00:00

『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643

序章 日本のアーリィ・モダン

013p-弓立社

 十六世紀から十八世紀に至るまで日本を観察した西洋人たちは日本の文明を自分たちの西洋文明より遅れたものとは感じはしなかった。ウィリアム・アダムズ(三浦按針)が「この島の人々は善良な性格を有し、この上なく礼儀正しく、戦闘において勇敢です。法を犯すものはいかなる差別もなく公正に裁かれます。すべての人々が秩序によって治められている。つまり世界中でこの国ほど市民政治が確立されているところはない」と述べたとき、彼には日本を英国より劣るものと見るまなざしはなかった。

ましてや長崎オランダ商館員のフィッセルが「われわれの誇り高い今日の文明開化の時代にいたるまで、その幸多き産物と利益とを、日本と同じ程度に、ヨーロッパの国々の中のどの一国に対してでも保証することができたかどうか」と書いたとぎ、彼の脳中に讃嘆の念こそあれ、見くだすような優越感があったはずもない。

014p
 十九世紀初頭まで日本に異質ではあるが対等な文明を見いだしていた西洋人が、十九世紀中葉には日本を決定的に遅れた文明と見なすようになっていたという事実は、この間にヨーロッパ自体において画期的かつ根本的な構造変化が生じたことを示唆する。

つまり十九世紀前半に確立した科学技術、機械制大工業、議会制民主主義を三本柱とするヨーロッパ的近代=現代は、世界普遍性というゲヴァルトを獲得して、十七、八世紀の全地球的アーリイモダンの日本における表現型すなわち徳川期文明を、古色蒼然たる封建社会と観ぜしめる段階に達していたのである。アーリイモダンとモダンとの間に走る断層をこれほど明瞭に示す事実はあるまい。

015p
 彼らのおどろきはこの十九世紀にこのように可愛らしく夢のような文明が存在しえたのかという感嘆だった。ウエストンは「素朴で絵のように美しい国」と言っている。「われわれにとって昔の日本はほっそりと優美な乙女と妖精の住む、こわれやすい小さな驚異の国だった」というチエンバレンの言葉は彼らの感銘を総括するものといってよい。"妖精の国"というのは当時の西洋人観察者の常用語であるけれども、それを彼らの単なる異国趣味による幻影とみなしてはならない。

 彼らが駕異と感じたものは美しい風景の中に営まれる簡素でありながら美的で、一切が精巧な玩具のような生活の様式であった。彼らはその様式を芝居のように感じることがあった。

西洋流の考えからすればほとんど家具らしい家具のない清潔な畳敷きの部屋に、衝立てやら火鉢やら茶道具などが持ち出される有様はまるで舞台のセットのようだったし、そこに登場する人物たちの優雅な礼儀作法は彼らを俳優のように感じさせた。

食事どぎに用いられるこまごまとした陶磁器はさながら美術品で、子どもたちのままごとの雰囲気があった。豪華で壮麗な建物などはなかった。家は木と紙で組み立てられていて、夢幻劇の装置のようにかわいらしかった。

江戸は百万都市であったが、森や水辺をふんだんにとりこんだそれ自体巨大な庭園で、西洋の大都市のようなさわがしい車馬の往来の替りに、街頭は「世界で一番かわいい子どもたち」の幸福な笑い声でみたされていた。

そして肝心なのは人びとの間に紡がれた親和感だった。下層階級にまで礼節がゆきわたり、親切と互譲と相互扶助と、それにユーモアと陽気さが、のびやかで開放的な社会的空気をつくり出していた。