渡辺京二『日本近世の起源』182015年03月03日 00:00

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

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第九章 領民が領主を選ぶ


206p☆-弓立社

 こうした例は何を物語っているのだろうか。武家の給人つまり領主階級の一員となるより、領民として村に残るほうが、より生き甲斐のある世界を彼に提供したことはあきらかだ。村内における指導者としての声望、大地との関わりにおける生産、農村の美しい四季――それは選びとるに値いする世界だったのである。

つまり、領主階級の一員として上昇する可能性を十分にもっていたひとりの地侍が、そうせずにあえて領民の地位を選択したという事実のうちに、新たに構築し直された領主―領民関係が、領民にとって望ましく受けいれるに足るものであったことがはっきりと示されている。

208p
 いわゆる「刀狩り」については、藤木久志の近年の研究が、その意義と実態を明らかにしつつある。刀狩り令が百姓の武具所持を禁止し、その没収を指令しているのは明白だが、「そこには、喧嘩停止令にも共通する、苛酷な自力の法の支配からの解放、という中世社会の歴史的な課題が、公然と掲げられている」と藤木は言う。

しかもその実態は主として刀の没収であり、たとえぼ加賀国溝口氏の例では合計三九七三本のうち、槍がニ八〇本、ほかはみな刀・脇差・小刀の類で、鉄砲は一本もなかった。つまり「刀狩り令」は実態においては「百姓帯刀権を原則的に否定」する「身分規制の性格を強く帯びていた」。「標的は文字通り『刀』だったのです。それも村の武装解除どころか、並行して村では、神事の刀剣、旧家の帯刀、害獣用の鉄砲など、さまざまな武器の免許が行われました」。

209p
 近世における民衆の武装解除という通説を、「農具としての鉄砲」という視点から切り崩したのは塚本学である。貞享四(一六八七)年、綱吉政権は諸国鉄砲改めを行ったが、それによると信州松本領では一〇四〇挺の鉄砲が村方にあった。一方領主たる水野家が所持する鉄砲は二三一挺でしかない。むろんこれは鳥獣と戦うための鉄砲であるのだが、このような在村鉄砲は領主も認めざるをえない実情だった。

綱吉政権は初めて在村鉄砲の規制にのり出すが、その政策は以後の幕政には継承されなかった。塚本は徳川政権が豊臣政権の刀狩り令を継承したというのは「史料によって実証された事実ではない」と言う。しかもその刀狩り令の実態は藤木によって明らかにされた通りなのだ。藤木によれは「近世を通して百姓らの脇指を携帯する慣行が、原理的に否定されることはなかった」。

 藤木久志によれは、秀吉権力は初期から「個別領主・百姓間の紛争に公平な裁定者として臨む」という態度を示し、領主や代官と争いを起した百姓が最高権力に直訴するいわゆる「越訴」を認めていた。それは「村々の土一揆的な実力行使の広い展開(戦争)とその動きを、強訴すれすれの提訴(平和)に転化させることによって、切迫した百姓・代官の武力衝突の危機を回避しようとする、豊臣方の高度な政治の力わざ」なのだった。

そして「このような村から大名への『越訴』のシステムの成立は、じつに戦国期にさかのぼる」のである。徳川政権は百姓の幕府に対する「越訴」を禁じたというのが長い間の定説だったが、それも最近の研究によって否定されるに到った。

210p☆
 藤木は「豊臣の在地にむけた主な政策のぼとんどが、村の起請文を伴って実施されている」こと、すなわち「村に実施要綱を示し村の誓約を求める、という手続きを通して実現されてい」ることを指摘し、この手続きが「領主と百姓との間に設定された『合点』の回路にほかならず、まさにこの点で、百姓起請文は領主側の恣意を下から拘束しえた」とする。

しかしこのような慣行は「豊臣政権の独創などではな」く、百姓連署の起請文は中世初期に「惣結合や荘家の一揆とともに、百姓申状とのセットというかたちをとって、すでに一般的に成立をみていた」のであって、「豊臣の政策は明らかに中世の『村々』の主体的な力量を基礎に、村と領主とのあいだのこうした起請の慣行を背景として成立していた」という。

 久留島典子は戦国期は百姓の自立志向を大名が抑えつけて支配を強化する時代であり、その過程を経て形成された徳川体制は百姓を厳しく土地に緊縛するものと考えられた時期もあったと前置きし、次のように述べる。

「領主たちは確かに共同して百姓たちの動向に対応したが、それは百姓や従者をより厳しく緊縛し支配する体制というよりは、村や町の共同組織が形成されつつある状況に対応し、それを取り込む形で、その共同組織を通じて百姓・町人を支配する体制へと向かったのではないか――最近ではこう考えられるようになってきた」。

むろんこれは勝俣鎮夫の「村町制」の提唱に始まり、尾藤正英の徳川社会論にもつながってゆく今日の研究動向を指摘したものだが、いわゆる徳川の平和が支配と自治のせめぎあいを含む相互依存から生れた事情をよく語っている。

領主は領国のうちに平和を実現すべき責任があるという、十五世紀に生まれた政治思想が、十六世紀にはひろく地下衆に浸透し、戦国大名の国家理念となって、ついに秀吉の統一国家を実現し、徳川の平和として現実に実を結んだのは、村々や町々に築きあげられた共同という社会的基礎があってこそだった。徳川の平和とは村々や町々に充ち溢れた豊かな生命の光であり、そのことは徳川の世が深まるにつれて明らかとなったのである。