渡辺京二『江戸という幻景』8 ― 2015年02月13日 00:00
『江戸という幻景』渡辺京二/弦書房
http://www.amazon.co.jp/dp/4902116219
11 法と裁判
219p
文政年間にオランダ長崎商館にいたフィッセルは、日本の裁判の厳しさについて述べ、続いてこう書いている。「しかしその厳しさは社会のあらゆる階級に対して平等である。そして裁判は最も厳格なる清潔さと公平さをもって行なわれていると推量されるだけの理由はあると言えるであろう」(『日本風俗備考』)。このような言述は今日の私たちの「常識」をとまどわせるかもしれない。しかし、安永年間におなじく出島に在ったツュンべりも、日本のように「法が身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は他にない」(『江戸参府随行記』)と断言しているのだ。
むろん江戸時代、法の適用や重刑が身分を問わず同一だったなどということはない。大名身分ひとつとっても、彼らは殺人などの非行を重ねても、武士のように切腹させられたり、庶人のように斬首に処せられたりすることはなく、領地を没収されてお預けの身になるか、場合によっては隠居ですむこともあった。ではフィッセルやツュンベリは何を言いたいのだろうか。おそらく彼らは法を犯した大名や役人が確実に処罰される点を、平等とか、身分に左右されないと表現したのであって、そのことならば、彼らは決して観察を誤ってはいなかったのである。
226p
江戸時代の裁きはその時代の正義観念と人情とのかね合いを計って、すこぶる自由裁量の余地があったようだ。寛成の頃、江戸近在で子どもが正月のドンドの真似をして誤って家を焼くということがあり、町奉行石河土佐守の裁きにかかった。奉行所より呼び出しがあって両親出頭したところ、たとえ小児のあやまちにせよ家を焼いた以上火刑に処すと申し渡され、泣く泣く門前で死骸を引きとろうと待っていたら、子どもは元気で出て来て、見ると頸筋に大きな灸のあとがあった(山田三川『想古録』)。
227p
山田三川はまた次のような話も書き留めている。天保七年十一月十二日の夜、昌平橋内の鍋町に火事があって、縦三間横二町の町並が焼けた。火元は酒屋で失火の届を出したのに、三十三、四の女が町奉行所へかけこみ、自分が放火したと申し出た。数十人の死者が出たゆえ、その罪のがれがたいと覚悟したというのだ。奉行が事情を訊くと、酒屋は自分の叔父で、物価騰貴のこの節母を養いかねるので三両の借金を申しこんだのに、貸してくれぬばかりか他人の前でさんざん悪口されたので、くやしさのあまり付け火したのだという。調べてみると女の言う通りだった。奉行は女の孝心を哀れんで、親を養う金三両を貸し遣わすから、毎年一朱ずつ返納せよ、返納し終ったときに火刑に処すと言い渡した。三両の金を毎年一朱返金して皆済するには四十八年かかる。そのとき女は八十を越しているのである。実質的な免訴であった。
228p
浅草通で、番所交替の鉄砲足軽行列の中を、町人が抑し割って通ったので、足軽たちが鉄砲で打ち叩き死に至らしめた。奉行所は「総じて供を割りたる考、切り捨てたらんには子細なし。ことさら町人の事なれば論に及ばず。然るに鉄砲はその主人の預る大切の番所警衛の道具なり。それを以って人を敲き殺ず条法外なり。右の罪遁れ難し」とて、足軽二人を牢舎に入れ相当の罰を加えたという(『翁草』)。これもまさにこの時代特有の衡平の感覚である。行列をみだす者は切り捨ててよろしいというのは建て前であって、建て前は破るわけにはゆかぬ。しかしこの大典を文字通り行なっては、いかにも殺された方に不公平の感がまぬかれない。従って法執行者は鉄砲に因縁をつけて足軽を罰し、衡平がそこなわれるのを防いだのである。まさに江戸時代ならではの判決であろう。
229p
また江戸時代には、子どもの嘆願によって刑が軽減されるということもあったようである。馬琴が『兎園小説』に録しているのでは、寛政文化の間に軍書を講談した瑞竜軒にこのことがあった。当時『中山物語』という俗書が行われ禁忌に触れることが多いとて禁書になっていたが、瑞竜軒がこれを手に入れて講じたので連夜の人だかり。遂に捕えられて、遠島になろうとの評判である。ところが彼に十二、三の娘がいて、奉行所にゆく度に親の罪にかわろうとねがい、「哀傷悲泣人の視聴を驚かし、追い立てらるれど心得退かず。死をだにも辞せぬ有さま」であった。判決は江戸払い。娘はある豪家に乞われて嫁となり、瑞竜軒はその家から扶助されて近郷で余生を送るを得たという。果して判決が娘の孝心のせいだったかどうか、これはわからない。もともと江戸払いぐらいが相当の事件だったのかも知れない。しかし世人は全くもって娘の孝心のせいと信じたし、司直の方にも孝心を嘉して、判決に手心を加えるぐらいの用意はいつでもあったのではあるまいか。
233p
ちなみに大木雅夫の『日本人の法観念』は、江戸時代とくに元禄以降訴訟が激増し、幕府が「健訟の弊」に苦慮した様をつぶさに述べ、「江戸京大坂その外繁華の地の町人遊人等は居ながら公事出入をいたし、いささかの事をも奉行所へ持ち出して埒を明くるなり」という『世事見聞録』の一節を引いている。大木が引いていないところを参考までに引くと、著者武陽隠士は「また関東の国々別して江戸近辺の百姓、公事に出る事を心安く覚え、また常に江戸に馴れ居て奉行所をも恐れず、役人をも見透し、殊に何角(なんのかんの)の序(ついで)にとかく江戸へ出た(が)る曲有りて、ややともすれば出入を拵え即時に江戸へ持出し、また道理の前後もよくよく弁えて心強く構えたるもの」云々と言つているのである。
242p
その後吟味の折、その方、女房に追い出されて江戸表へ参ったそうだなと、鎮衛が口を滑らしたものだからたまらない。たちまち甚右衛門の顔色が変った。「江戸表は知らず、甲州に夫を追い出す女もなく、追い出され候男あるべきようなし」と喰ってかかる。つむじが完全に曲ったのである。さてこのあとは、「たとえあらぬ噂にせよ、下につくべき女房に追い出されたと言われて腹が立つなら、上に立つ公儀の裁許を下の心に叶わずとて我意を張るのは通るまい。夫婦上下の礼を知りながら、私をもって公儀をしのぐその心がわからぬ」と鎮衛が説得して、遂にこの強情者に口書に印形を捺させたという手柄話になるが、いったん曲った臍をもとに戻すには鎮衛もさぞ奮闘せねばならなかったことだろう。取調べ役はこのように百姓に気を遣い、場合によってはほとんど機嫌をとらんばかりだったのである。
243p
逆に百姓は意気軒昂たるものがあった。
大木雅夫は「それ百姓と云もの、元来性癖にして、すさまじきものなり。……百姓の公事は、武士の軍戦なり。百姓は戦う事叶わざる故に、公所へ出て命を諍う」という田中丘隅の言を引き、「かれの描く『すさまじき』百姓像は、権威に屈従し、憐みを乞い、諦念に生きる江戸時代の農民というたぐいの通俗的な――あるいは特定の史観に呪縛された学者たちの――百姓像とはまるで違っている」と言う。美濃郡上一揆における百姓たちの行動を思えば、また山中村甚右衛門の法廷での態度を見れば、丘隅の言が奇矯ではないのをわれわれもまた知ることができよう。
いわゆる百姓一揆についてはこの本では取り上げない。取り上げたら大変なことになるからだ。しかし保坂智の研究によって、この分野でも新しい知見が拓かれつつあることだけは言っておきたい(保坂智『百姓一挨とその作法』その他)。保坂は通説の多くの誤りをただしているが、中でも、越訴は幕府によって事実上受理されていたし、罰されても軽罪だったことを明らかにしたのは鮮やかだった。通説は越訴は禁じられ、犯せば獄門、磔と説いていたのである。ただし故平松義郎は遺著の中でさすがに、「『駕籠訴』の刑は一般に軽く、急度叱りの程度であった」と書いていた。
保坂の説くところでは幕府が禁じたのは徒党・強訴・逃散で、徒党は強訴・逃散の前段階だから、実質は強訴と逃散のふたつが非法ということになる。しかし徳川期を通じて強訴・逃散はたえず行われ、処罰は重い場合もあり軽い例もあり、全く処罰されぬことすらあった。建て前は不法であり、処罰されるにしても、徳川期の社会は強訴・逃散をあるべき現象として組みこんだシステムだったといってよい。なぜなら、一揆は決して藩公の支配を否定するものではなく、藩公の仁心を覆う悪臣の所為を糾弾するものと百姓自身に意識されていたからである。彼らが要求したのは百姓相続の保障、すなわち現体制下での百姓身分の存続であって、それ自体何ら違法性を含まず、ただそれを実現するには強訴という違法行為に訴えるしかなかった。ただし百姓は一揆の違法性とはただ形式にすぎず、その精神は支配者の説く正義とも合致すると信じた。それゆえに彼らは誇り高い存在だったのである。
244p
『鸚鵡籠中記』の元禄十六年七月二十六日の項には、「頃日、尾州の百姓数十人、佐田弾介処にて云い渡しを聞きて大いに笑い、ときの声をどうと揚げたり。すなわち頭取五人籠舎」という記事がある。佐田弾介というのは代官であろうか。私はこの記事が気になって仕方がない。そんなことをすれば仕置が待っているとわかっているのに、申し渡しをどっと笑ってしまう百姓。江戸時代は百姓像ひとつとっても、まだわれわれには未知の時代なのである。
http://www.amazon.co.jp/dp/4902116219
11 法と裁判
219p
文政年間にオランダ長崎商館にいたフィッセルは、日本の裁判の厳しさについて述べ、続いてこう書いている。「しかしその厳しさは社会のあらゆる階級に対して平等である。そして裁判は最も厳格なる清潔さと公平さをもって行なわれていると推量されるだけの理由はあると言えるであろう」(『日本風俗備考』)。このような言述は今日の私たちの「常識」をとまどわせるかもしれない。しかし、安永年間におなじく出島に在ったツュンべりも、日本のように「法が身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は他にない」(『江戸参府随行記』)と断言しているのだ。
むろん江戸時代、法の適用や重刑が身分を問わず同一だったなどということはない。大名身分ひとつとっても、彼らは殺人などの非行を重ねても、武士のように切腹させられたり、庶人のように斬首に処せられたりすることはなく、領地を没収されてお預けの身になるか、場合によっては隠居ですむこともあった。ではフィッセルやツュンベリは何を言いたいのだろうか。おそらく彼らは法を犯した大名や役人が確実に処罰される点を、平等とか、身分に左右されないと表現したのであって、そのことならば、彼らは決して観察を誤ってはいなかったのである。
226p
江戸時代の裁きはその時代の正義観念と人情とのかね合いを計って、すこぶる自由裁量の余地があったようだ。寛成の頃、江戸近在で子どもが正月のドンドの真似をして誤って家を焼くということがあり、町奉行石河土佐守の裁きにかかった。奉行所より呼び出しがあって両親出頭したところ、たとえ小児のあやまちにせよ家を焼いた以上火刑に処すと申し渡され、泣く泣く門前で死骸を引きとろうと待っていたら、子どもは元気で出て来て、見ると頸筋に大きな灸のあとがあった(山田三川『想古録』)。
227p
山田三川はまた次のような話も書き留めている。天保七年十一月十二日の夜、昌平橋内の鍋町に火事があって、縦三間横二町の町並が焼けた。火元は酒屋で失火の届を出したのに、三十三、四の女が町奉行所へかけこみ、自分が放火したと申し出た。数十人の死者が出たゆえ、その罪のがれがたいと覚悟したというのだ。奉行が事情を訊くと、酒屋は自分の叔父で、物価騰貴のこの節母を養いかねるので三両の借金を申しこんだのに、貸してくれぬばかりか他人の前でさんざん悪口されたので、くやしさのあまり付け火したのだという。調べてみると女の言う通りだった。奉行は女の孝心を哀れんで、親を養う金三両を貸し遣わすから、毎年一朱ずつ返納せよ、返納し終ったときに火刑に処すと言い渡した。三両の金を毎年一朱返金して皆済するには四十八年かかる。そのとき女は八十を越しているのである。実質的な免訴であった。
228p
浅草通で、番所交替の鉄砲足軽行列の中を、町人が抑し割って通ったので、足軽たちが鉄砲で打ち叩き死に至らしめた。奉行所は「総じて供を割りたる考、切り捨てたらんには子細なし。ことさら町人の事なれば論に及ばず。然るに鉄砲はその主人の預る大切の番所警衛の道具なり。それを以って人を敲き殺ず条法外なり。右の罪遁れ難し」とて、足軽二人を牢舎に入れ相当の罰を加えたという(『翁草』)。これもまさにこの時代特有の衡平の感覚である。行列をみだす者は切り捨ててよろしいというのは建て前であって、建て前は破るわけにはゆかぬ。しかしこの大典を文字通り行なっては、いかにも殺された方に不公平の感がまぬかれない。従って法執行者は鉄砲に因縁をつけて足軽を罰し、衡平がそこなわれるのを防いだのである。まさに江戸時代ならではの判決であろう。
229p
また江戸時代には、子どもの嘆願によって刑が軽減されるということもあったようである。馬琴が『兎園小説』に録しているのでは、寛政文化の間に軍書を講談した瑞竜軒にこのことがあった。当時『中山物語』という俗書が行われ禁忌に触れることが多いとて禁書になっていたが、瑞竜軒がこれを手に入れて講じたので連夜の人だかり。遂に捕えられて、遠島になろうとの評判である。ところが彼に十二、三の娘がいて、奉行所にゆく度に親の罪にかわろうとねがい、「哀傷悲泣人の視聴を驚かし、追い立てらるれど心得退かず。死をだにも辞せぬ有さま」であった。判決は江戸払い。娘はある豪家に乞われて嫁となり、瑞竜軒はその家から扶助されて近郷で余生を送るを得たという。果して判決が娘の孝心のせいだったかどうか、これはわからない。もともと江戸払いぐらいが相当の事件だったのかも知れない。しかし世人は全くもって娘の孝心のせいと信じたし、司直の方にも孝心を嘉して、判決に手心を加えるぐらいの用意はいつでもあったのではあるまいか。
233p
ちなみに大木雅夫の『日本人の法観念』は、江戸時代とくに元禄以降訴訟が激増し、幕府が「健訟の弊」に苦慮した様をつぶさに述べ、「江戸京大坂その外繁華の地の町人遊人等は居ながら公事出入をいたし、いささかの事をも奉行所へ持ち出して埒を明くるなり」という『世事見聞録』の一節を引いている。大木が引いていないところを参考までに引くと、著者武陽隠士は「また関東の国々別して江戸近辺の百姓、公事に出る事を心安く覚え、また常に江戸に馴れ居て奉行所をも恐れず、役人をも見透し、殊に何角(なんのかんの)の序(ついで)にとかく江戸へ出た(が)る曲有りて、ややともすれば出入を拵え即時に江戸へ持出し、また道理の前後もよくよく弁えて心強く構えたるもの」云々と言つているのである。
242p
その後吟味の折、その方、女房に追い出されて江戸表へ参ったそうだなと、鎮衛が口を滑らしたものだからたまらない。たちまち甚右衛門の顔色が変った。「江戸表は知らず、甲州に夫を追い出す女もなく、追い出され候男あるべきようなし」と喰ってかかる。つむじが完全に曲ったのである。さてこのあとは、「たとえあらぬ噂にせよ、下につくべき女房に追い出されたと言われて腹が立つなら、上に立つ公儀の裁許を下の心に叶わずとて我意を張るのは通るまい。夫婦上下の礼を知りながら、私をもって公儀をしのぐその心がわからぬ」と鎮衛が説得して、遂にこの強情者に口書に印形を捺させたという手柄話になるが、いったん曲った臍をもとに戻すには鎮衛もさぞ奮闘せねばならなかったことだろう。取調べ役はこのように百姓に気を遣い、場合によってはほとんど機嫌をとらんばかりだったのである。
243p
逆に百姓は意気軒昂たるものがあった。
大木雅夫は「それ百姓と云もの、元来性癖にして、すさまじきものなり。……百姓の公事は、武士の軍戦なり。百姓は戦う事叶わざる故に、公所へ出て命を諍う」という田中丘隅の言を引き、「かれの描く『すさまじき』百姓像は、権威に屈従し、憐みを乞い、諦念に生きる江戸時代の農民というたぐいの通俗的な――あるいは特定の史観に呪縛された学者たちの――百姓像とはまるで違っている」と言う。美濃郡上一揆における百姓たちの行動を思えば、また山中村甚右衛門の法廷での態度を見れば、丘隅の言が奇矯ではないのをわれわれもまた知ることができよう。
いわゆる百姓一揆についてはこの本では取り上げない。取り上げたら大変なことになるからだ。しかし保坂智の研究によって、この分野でも新しい知見が拓かれつつあることだけは言っておきたい(保坂智『百姓一挨とその作法』その他)。保坂は通説の多くの誤りをただしているが、中でも、越訴は幕府によって事実上受理されていたし、罰されても軽罪だったことを明らかにしたのは鮮やかだった。通説は越訴は禁じられ、犯せば獄門、磔と説いていたのである。ただし故平松義郎は遺著の中でさすがに、「『駕籠訴』の刑は一般に軽く、急度叱りの程度であった」と書いていた。
保坂の説くところでは幕府が禁じたのは徒党・強訴・逃散で、徒党は強訴・逃散の前段階だから、実質は強訴と逃散のふたつが非法ということになる。しかし徳川期を通じて強訴・逃散はたえず行われ、処罰は重い場合もあり軽い例もあり、全く処罰されぬことすらあった。建て前は不法であり、処罰されるにしても、徳川期の社会は強訴・逃散をあるべき現象として組みこんだシステムだったといってよい。なぜなら、一揆は決して藩公の支配を否定するものではなく、藩公の仁心を覆う悪臣の所為を糾弾するものと百姓自身に意識されていたからである。彼らが要求したのは百姓相続の保障、すなわち現体制下での百姓身分の存続であって、それ自体何ら違法性を含まず、ただそれを実現するには強訴という違法行為に訴えるしかなかった。ただし百姓は一揆の違法性とはただ形式にすぎず、その精神は支配者の説く正義とも合致すると信じた。それゆえに彼らは誇り高い存在だったのである。
244p
『鸚鵡籠中記』の元禄十六年七月二十六日の項には、「頃日、尾州の百姓数十人、佐田弾介処にて云い渡しを聞きて大いに笑い、ときの声をどうと揚げたり。すなわち頭取五人籠舎」という記事がある。佐田弾介というのは代官であろうか。私はこの記事が気になって仕方がない。そんなことをすれば仕置が待っているとわかっているのに、申し渡しをどっと笑ってしまう百姓。江戸時代は百姓像ひとつとっても、まだわれわれには未知の時代なのである。
渡辺京二『江戸という幻景』7 ― 2015年02月12日 00:00
『江戸という幻景』渡辺京二/弦書房
http://genshobo.com/?p=597
10 ぬしが殿様じゃったや
193p
お城の御賄頭を勤める大木金助は、官務の間には絵を描き医業も施すという人物だったが、堺町の歌舞伎芝居を見物したときに知りあった十三歳の少年が絵が好き学問が好きで、とうとう大木宅に住みこんで書生のようになってしまった。この少年は芝居小屋の真向いの芝居茶屋の息子なのに、狂言を見ることが嫌い、弁当を芝居小屋へ運ぶのもいやという変り者で、明け暮れ学問ばかりしているものだから、これでは家業を継げぬと心配した親がいろいろと説諭するが利き目がない。とうとう親が諦めて大木にあずけたという次第だが、その親の大木に語った言葉が傑作だった。「伜の儀はとても相続いたし役に立つべき者にあらず、かかる不料簡の者は【侍にでも致さずば】相なるまじき」。大木が根岸鎮衛を訪ねてこの話をしたとき、二人は顔を見合せて大笑いになったという(『耳袋』)。
真木野久兵衛は牛天神(現文京区)あたりで道場を構える達人だったが、ある日三人の町年寄(あるいは豪家の町人とも伝わる)がやって来て、剣術を伝授してくれという。弟子になっても秘伝の伝授ばかりせっつく。久兵衛は桜の馬場で三人と会い、約束の伝授をしようとて、三人を従えて馬場の端から端まで走った。老年の久兵衛は半途で息が切れたのに、三人はもう端まで走り着いている。介抱に立ち戻った三人が「走れとおっしゃるので走りました。さあご伝授下さい」と言うのに、もう済んだと久兵衛は答える。合点がゆかぬ三人に向って久兵衛いわく、「剣術は身を守るためのもので、こなたより求めて立ち向うのではない。避けょうとしてもままならぬときに用立つのが剣術である。あなた方は武家ではないから逃げるのが一番だ。武士は逃げることのできぬ身分だが、町人は逃げて苦しからず。三人ともあの通りの走りゆえ、逃げ足達者というべきである。当流の極秘はその外にはない」(『耳袋』)。
武士は逃げることはできないが、町人は逃げてよいのだと言うとき、久兵衛は町人の身分を侮ったのだろうか。そうではあるまい。逃げることの叶わぬ武士よりも、逃げて当然の町人の方が人間の本然に近いと彼は考えていたのではあるまいか。そもそも逃げてよいのなら、相手を斬り殺す術など習う必要がないのだ。逃げてはならぬという因業な定めを負うからこそ、武士は他の者には無益な殺生の技を習うのである。久兵衛ははそれを言いたかった。
194p
198p
武士と庶人の間はそれほど階級的にかけ隔たったものではなかったようだ。勝小吉は少年時代、町の子どもたちと喧嘩ばかりしていた。当時は町内が違うだけで子どもは喧嘩したのだから、御家人の子どもと町人の子どもが常日頃喧嘩する好敵手であって不思議はない。まだ生家の男谷家に居た時分、五歳の時に長吉という町人の子と凧のことで喧嘩し、向うは三つばかり大きくて凧を取り上げて破られたので、切り石で長吉の面を撲り血だらけにさせた。それが父に見つかり「人の子に疵をつけてすむか」と庭下駄で頭をぶち破られた。
勝家に来てからも、ある日凧のことで喧嘩になったが、相手はニ、三十人、こちらは小吉ひとりで、「ついにかなわず、干かばの石の上に追い上げられて、長悼でしたたか叩かれて、散らし髪になったが、泣きながら脇差を抜いて斬り散らし、所詮かなわなく思ったから、腹を切らんと思い、肌を脱いで石の上に坐ったら、その脇にいた白子屋という米屋がとめて、内へ送ってくれた」。それから近所の子はみな小吉の手下になった。小吉七歳である。
ある日は小吉が飼っていた犬が亀沢町の犬と喰い合い、それで喧嘩になった。小吉側は八人、亀沢町の子どもは緑町にも加勢を頼んで四、五十人。得物は小吉側が六尺棒、木刀、竹刀、亀沢町側は竹槍を持ち出した。最初は小吉方が優勢で相手を追い返したが、二度目は相手は大人も加わったので、とうとう門内に追いこまれた。町万は勝ちに乗じて門を丸太でがんがん叩く。八人が協差を抜いて切って出たところ、町万は総くずれとなったものの、仕立屋の息子の弁次というのが踏みとどまって、小吉の弟(七歳)の胸を竹槍で突いた。小吉がかけつけて弁次の眉間を切ると、弁次は尻もちをついてどぶに落ちた。
199p
この一件はあとを引いて、小吉が柔術の稽古に行く途中、はんの木馬場というところに、亀沢町の子どもとその親たちが大勢待ち受けていて、「それ男谷のいたずら子がきた。ぶちころせ」と罵りながら、竹槍や棒を手にして小吉を取り巻いた。小吉は刀を抜いてまわりを切り払い、やっとのことで御竹蔵に逃げこんで窮地を脱した。このように町人は武士の子とて、決して遠慮はしていなかったのである。
203p
身分の垣根は越えられぬものではなかった。これはひとつには、養子という日本独特の家の継ぎ方があって、何よりも家の永続と繁栄を主とする考えから、後継ぎを血のつながりによってよりも、当人の才器によって選ぶという習慣が、武家・商家・農家を問わず、多くの庶人の子の社会的上昇を可能にしたのである。しかも、旗本・御家人の株は金銭によって購入することができた。前にも記したように、勝小吉はもともと旗本男谷平蔵の三男だが、平蔵の父は越後の盲人で、江戸に出て産をなし、末子平蔵に旗本男谷家の株を買ってやったのである。平蔵の長男、つまり男谷家を継いだ小吉の兄は、中間から取り立てた家来どもに、残らず御家人の株を買ってやったそうだ。
さらに幕末になると、政治的事情の要請から、多くの庶人が士分に登用されたことはよく知られている。例えば水戸藩の侍講となった地理学者長久保赤水は常陸の農家の子、最上徳内と間宮林蔵も貧農の子、川路聖?の父は日田代官の属僚だった。もっとも庶人の子が学者となり幕府に召されたのはずっと以前からで、治水家田中丘隅は武蔵国八王子の絹商人の子、青木昆陽は日本橋魚河岸の魚問屋の子である。本書でもしばしば登場する根岸鎮衛は、かごかきの出身だったなどと取沙汰されたが(山田三川『想古録』)、実は御徒組の士の子で、異例の出世が様々な風説を呼んだものらしい。
204p
かつて柳田国男は、災害と一挨ばかりで成り立っているような江戸時代史に嫌悪の念を洩らしたことがあったが、、江戸時代には百姓一挨はむろん頻発した。だが、領主支配の根本を拒否するような一挨は一度も起ったことがない。それはむしろ、領主とは領民を育み慈しむものだとする理念に、領主ないし藩政がそむいたと判断されたときに、事態を是正するために発動されたので、正しき領主支配への是認はその意味で一揆の前提ですらあった。
http://genshobo.com/?p=597
10 ぬしが殿様じゃったや
193p
お城の御賄頭を勤める大木金助は、官務の間には絵を描き医業も施すという人物だったが、堺町の歌舞伎芝居を見物したときに知りあった十三歳の少年が絵が好き学問が好きで、とうとう大木宅に住みこんで書生のようになってしまった。この少年は芝居小屋の真向いの芝居茶屋の息子なのに、狂言を見ることが嫌い、弁当を芝居小屋へ運ぶのもいやという変り者で、明け暮れ学問ばかりしているものだから、これでは家業を継げぬと心配した親がいろいろと説諭するが利き目がない。とうとう親が諦めて大木にあずけたという次第だが、その親の大木に語った言葉が傑作だった。「伜の儀はとても相続いたし役に立つべき者にあらず、かかる不料簡の者は【侍にでも致さずば】相なるまじき」。大木が根岸鎮衛を訪ねてこの話をしたとき、二人は顔を見合せて大笑いになったという(『耳袋』)。
真木野久兵衛は牛天神(現文京区)あたりで道場を構える達人だったが、ある日三人の町年寄(あるいは豪家の町人とも伝わる)がやって来て、剣術を伝授してくれという。弟子になっても秘伝の伝授ばかりせっつく。久兵衛は桜の馬場で三人と会い、約束の伝授をしようとて、三人を従えて馬場の端から端まで走った。老年の久兵衛は半途で息が切れたのに、三人はもう端まで走り着いている。介抱に立ち戻った三人が「走れとおっしゃるので走りました。さあご伝授下さい」と言うのに、もう済んだと久兵衛は答える。合点がゆかぬ三人に向って久兵衛いわく、「剣術は身を守るためのもので、こなたより求めて立ち向うのではない。避けょうとしてもままならぬときに用立つのが剣術である。あなた方は武家ではないから逃げるのが一番だ。武士は逃げることのできぬ身分だが、町人は逃げて苦しからず。三人ともあの通りの走りゆえ、逃げ足達者というべきである。当流の極秘はその外にはない」(『耳袋』)。
武士は逃げることはできないが、町人は逃げてよいのだと言うとき、久兵衛は町人の身分を侮ったのだろうか。そうではあるまい。逃げることの叶わぬ武士よりも、逃げて当然の町人の方が人間の本然に近いと彼は考えていたのではあるまいか。そもそも逃げてよいのなら、相手を斬り殺す術など習う必要がないのだ。逃げてはならぬという因業な定めを負うからこそ、武士は他の者には無益な殺生の技を習うのである。久兵衛ははそれを言いたかった。
194p
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武士と庶人の間はそれほど階級的にかけ隔たったものではなかったようだ。勝小吉は少年時代、町の子どもたちと喧嘩ばかりしていた。当時は町内が違うだけで子どもは喧嘩したのだから、御家人の子どもと町人の子どもが常日頃喧嘩する好敵手であって不思議はない。まだ生家の男谷家に居た時分、五歳の時に長吉という町人の子と凧のことで喧嘩し、向うは三つばかり大きくて凧を取り上げて破られたので、切り石で長吉の面を撲り血だらけにさせた。それが父に見つかり「人の子に疵をつけてすむか」と庭下駄で頭をぶち破られた。
勝家に来てからも、ある日凧のことで喧嘩になったが、相手はニ、三十人、こちらは小吉ひとりで、「ついにかなわず、干かばの石の上に追い上げられて、長悼でしたたか叩かれて、散らし髪になったが、泣きながら脇差を抜いて斬り散らし、所詮かなわなく思ったから、腹を切らんと思い、肌を脱いで石の上に坐ったら、その脇にいた白子屋という米屋がとめて、内へ送ってくれた」。それから近所の子はみな小吉の手下になった。小吉七歳である。
ある日は小吉が飼っていた犬が亀沢町の犬と喰い合い、それで喧嘩になった。小吉側は八人、亀沢町の子どもは緑町にも加勢を頼んで四、五十人。得物は小吉側が六尺棒、木刀、竹刀、亀沢町側は竹槍を持ち出した。最初は小吉方が優勢で相手を追い返したが、二度目は相手は大人も加わったので、とうとう門内に追いこまれた。町万は勝ちに乗じて門を丸太でがんがん叩く。八人が協差を抜いて切って出たところ、町万は総くずれとなったものの、仕立屋の息子の弁次というのが踏みとどまって、小吉の弟(七歳)の胸を竹槍で突いた。小吉がかけつけて弁次の眉間を切ると、弁次は尻もちをついてどぶに落ちた。
199p
この一件はあとを引いて、小吉が柔術の稽古に行く途中、はんの木馬場というところに、亀沢町の子どもとその親たちが大勢待ち受けていて、「それ男谷のいたずら子がきた。ぶちころせ」と罵りながら、竹槍や棒を手にして小吉を取り巻いた。小吉は刀を抜いてまわりを切り払い、やっとのことで御竹蔵に逃げこんで窮地を脱した。このように町人は武士の子とて、決して遠慮はしていなかったのである。
203p
身分の垣根は越えられぬものではなかった。これはひとつには、養子という日本独特の家の継ぎ方があって、何よりも家の永続と繁栄を主とする考えから、後継ぎを血のつながりによってよりも、当人の才器によって選ぶという習慣が、武家・商家・農家を問わず、多くの庶人の子の社会的上昇を可能にしたのである。しかも、旗本・御家人の株は金銭によって購入することができた。前にも記したように、勝小吉はもともと旗本男谷平蔵の三男だが、平蔵の父は越後の盲人で、江戸に出て産をなし、末子平蔵に旗本男谷家の株を買ってやったのである。平蔵の長男、つまり男谷家を継いだ小吉の兄は、中間から取り立てた家来どもに、残らず御家人の株を買ってやったそうだ。
さらに幕末になると、政治的事情の要請から、多くの庶人が士分に登用されたことはよく知られている。例えば水戸藩の侍講となった地理学者長久保赤水は常陸の農家の子、最上徳内と間宮林蔵も貧農の子、川路聖?の父は日田代官の属僚だった。もっとも庶人の子が学者となり幕府に召されたのはずっと以前からで、治水家田中丘隅は武蔵国八王子の絹商人の子、青木昆陽は日本橋魚河岸の魚問屋の子である。本書でもしばしば登場する根岸鎮衛は、かごかきの出身だったなどと取沙汰されたが(山田三川『想古録』)、実は御徒組の士の子で、異例の出世が様々な風説を呼んだものらしい。
204p
かつて柳田国男は、災害と一挨ばかりで成り立っているような江戸時代史に嫌悪の念を洩らしたことがあったが、、江戸時代には百姓一挨はむろん頻発した。だが、領主支配の根本を拒否するような一挨は一度も起ったことがない。それはむしろ、領主とは領民を育み慈しむものだとする理念に、領主ないし藩政がそむいたと判断されたときに、事態を是正するために発動されたので、正しき領主支配への是認はその意味で一揆の前提ですらあった。
渡辺京二『江戸という幻景』6 ― 2015年02月11日 00:00
『江戸という幻景』渡辺京二/弦書房
http://www.amazon.co.jp/dp/4902116219
7 風雅のなかの日常
129p
当時の人びとの暮らしよう、とくに庶民のそれがいたってシンプルだったのはいうまでもない。そのことはまた、心根がシンプルであるのを意味した。高村光太郎の父高村光雲は明治彫刻界の重鎮である。嘉永五年の生まれで、御一新の際は数えの十七だったから、旧幕時代の暮らしについては十分語る資格があった。その光雲が次のように回顧している。
「現代ではただの労働者でも、絵だの彫刻だのというようなことが、多少とも脳にありますが、その頃はそうした考えなどは、全くない。早い話が、家のつくりのようなものでも、作りからして違っている。今日ではドンナ長屋でも床の間の一つ位はあるけれども、その時代は、普通の町人の家には床の間などはない。住居でも、衣食のことでも、万事大層手軽なものであります。何でも手に一つの定職を習い覚え、握りっ拳で毎日幾金かを取ってくれば、それで人間一人前の能事として充分と心得たものです」(『幕末維新回顧談』)。「どうもこの頃の職人の生活などはすこぶる呑気なもので、月に一両二分もあれば親子五、六人は大した心配もせず、寝酒の一合ずつは飲んでいけた。
135p
光雲の父は晩年は楽隠居の身分となったが、元来手先が器用で人形や玩具を作るのが巧みな人で、還暦をすぎていろんな虫の細工物をこしらえ始めた。バッタやら赤トンボなど、本物そっくりに作りあげると、浅草田圃へ行って葦の葉をとってきて、それに虫をとまらせて悦に入っていた。そのうち、それを人出のある所へ行って並べてみると、通りすがりの者が買ってゆく。老人はその売り上げでお土産を家に買って帰るのが娯しみだった。老人にとってこれは商売ではなかった。自分の趣向を人様がよろこんでくれるのが嬉しいのであり、またお土産を家に持って帰るのが自慢なのだった。この時代の人びとの幸せはこういうところにあった。決して?い一生というだけではなかった。栖落っ気と風流な気分は、一介の庶民の一生にも優雅な花を添えたのである。
135p
『続近世崎人伝』は岸玄知という出雲侯の茶道方が梅樹を買った話を載せている。ある時郊外に遊んで、農家の傍らに梅が見事に咲いているのを見て、大金を与えて買い取った。しかし花の下で酒を酌むばかりで、梅の樹を持って行こうとしない。農夫がいつ移植するのかと問うと、わが家の庭は狭くて、こんな木を植える余地はない、ずっとここに置いておくと言う。それなら実がなりましたら届けましょうと言うのに玄知曰く、「吾は花をこそ賞すれ、実に望みなし、汝これをとれ」。農夫がおどろいて、ただ花を見るためなら、いつでも何日でもおいでください、お金はお返ししますと言うと、「人の花は見て面白からず、わが花にしてこそ興あれ」と玄知は答えたという。
136p
村尾嘉陵は清水徳川家の広敷用人を勤めた人で、休日ごとに近郊を探訪して紀行文を残した。
139p
嘉陵にとって浅間山とは何だったのだろうか。彼は美景を楽しんだのではない。山は眉墨のように遠くにしか見えなかったのだ。彼はただ浅間が恋しかった。恋しい人は遠くからでも一目見て胸に刻めばよいのである。世に高士英傑あリと聞けば、遠路を遠しとせずに訪うたように、当時の人は名山ありと知れば、一目でもそれと逢いたかった。登るわけではない。画に描くのでもない。ただあいまみえればよかったのだ。彼にとって名花も名刹も名山も一期一会の友であった。そういう出会いの積み重ねが生きるということだった。彼は蒐集家のように名所旧蹟のスタンプを集めたのではない。花にせよ庭園にせよ神社仏閣にせよ、あるいはささやかな言い伝えの残る旧蹟にせよ、それらは世界が彼に開示してくれる生の秘蹟だったのである。彼の目はあだおろそかにうろついてはいなかった。凝視があり、感銘があり、こみあげる万感というものがあった。
144p
江戸の郊外は訪なう人を裏切らぬ様々な情趣を備えていたらしい。十方庵は豊嶋郡徳丸が原は春になると一面に桜草が咲いて「佳興絶品」だと言っている。また葛飾郡の弐十五村はたてよこ一里の間桃林ならざるはなく、花時は世に名高い杉田の梅林の比ではないという。名物をあげれば、多摩郡宮本村の相生の松、那賀郡春貞寺の七種咲きわけの梅、足立郡芝村には三股の竹、水戸侯上屋敷には四方竹、小石川松平播磨守上屋敷の藤ときりがない。大久保百人町の同心組屋敷は束の木戸より西の木戸まで八町余り、いろとりどりの躑躅に埋まる。中でも飯嶋という同心の家は東西八間、南北二町余にわたって両側に躑躅が列をなす。青山百人町の同心組屋敷は高燈籠で名高い。例年盆のあいだ長い竿を何本も継いで燈籠を掲げ、その高さを競いあう。遠くから見れば空にきらめく星に似るというので、異名を星燈籠という。人びとの一生はこのような景物に彩られて過ぎた。名花も美景も、観る人を選びはしなかったのである。
8 旅ゆけば
153p
旅人の感懐をそそったのは各地の売春の形態であろう。出羽国の温海(現山形県)では、娘のいる家ではみな娘を遊女に出すのを習いとしており、これを浜のおばと呼ぶという(真澄『秋田のかりね』)。繁太夫が越後高田で見たところでは、当地の下女は「昼の内用向きを片付け、夜五つごろより隙をもらいて泊りに出る。夜明けて帰る」。二百文くらいでからだを売るのである。夜は外に出さぬという堅い家には、下女が言い合わせて奉公に来ないので詐すほかない。下女どころか、相応の女房娘も出ると繁太夫は言っている。
野田泉光院は長崎では娘を娼家に売るのを名誉と心得、娘をほめるのに、このご息女は三百目のご器量とか五百目の御顔色などと言い、親はそれを喜んでいると呆れ顔である。これは少々えげつないにしても、この時代の人びとの意識においては、遊廓といい遊女といい、それほどさげすむべきものではなかった。堺奉行土屋廉直の妻斐子は、東海道赤坂の宿で、遊女たちが三味線や笛で客の朝立ちを見送る光景を「艶なるあけぼのなり」と観た。また小田宅子は新吉原のおいらん道中を見て、「見るだにも心浮かるる面かげを誰が河竹のしづむといふや」と詠んでいる。遊女の身が悲惨とは露思わなかったのだ(柴桂子『近世おんな旅日記』)。頼山陽が母静子を島原の遊廓に登楼させ、花魁を総あげして盛宴を張ったのは有名な話だ。静子もこの遊びがたいそう気に入った(中村真一郎『頼山陽とその時代』)。清河八郎も江戸に遊んだ時、母を伴って吉原の大楼に登っている(『西遊草』)。遊廓は龍宮城のようなもので、女性が一見しても恥にはならなかったのである。
154p
161p
馬琴がかねて恩顧を蒙る某侯の家臣に、山本郷右衛門という足軽がいた。寛政四年、この者が飛脚として江戸に出て、またみちのくへ帰る折、奥州街道鍋掛の宿を通ると、はずれの坂に粗末な小屋がかけられ、父親と娘がその中にいた。これは回国の者で、父が重病で倒れ命も危うかったので、宿の者たちが憐れみ、小屋がけして親子を入れたのだという。少女が道行く者に袖乞いして露命をつないでいると聞いて郷右衛門、二朱銀一片に薬を添え、楊子挿しの袋に入れて与えた。その後寛政八年、郷右衛門はまた飛脚をうけ承って江戸に出、ある日誘われて新吉原江戸Wの丸海老屋という青楼に登ったところ、夜が更けてから清花という妓から果物が届いた。心当りのさっぱりない郷右衛門、清花なる妓と会ってみたところ、それが鍋掛の宿で施しをした少女だったのである。何よりも与えた楊子挿しの袋が証拠であった。
162p
話を聞くと、この親子は越後高田の者で、母が長病で亡くなった頃、ひでりやら水損やらで暮しの立ちゆかなくなった父親が、なき人の菩提のためとて、娘を連れて回国の途についたのであった。施しを受けたあと間もなく父は世を去ったが、御顔をよく覚えておいて、再会の折には御礼申せと少女に言い聞かせていた。「はじめかの鍋掛にて、御身に会いしは、十四のときにて、本の名をそよといえり。あじきなき世にながらえて、はや十八になり侍り」と言って、娘は泣いたということだ。
http://www.amazon.co.jp/dp/4902116219
7 風雅のなかの日常
129p
当時の人びとの暮らしよう、とくに庶民のそれがいたってシンプルだったのはいうまでもない。そのことはまた、心根がシンプルであるのを意味した。高村光太郎の父高村光雲は明治彫刻界の重鎮である。嘉永五年の生まれで、御一新の際は数えの十七だったから、旧幕時代の暮らしについては十分語る資格があった。その光雲が次のように回顧している。
「現代ではただの労働者でも、絵だの彫刻だのというようなことが、多少とも脳にありますが、その頃はそうした考えなどは、全くない。早い話が、家のつくりのようなものでも、作りからして違っている。今日ではドンナ長屋でも床の間の一つ位はあるけれども、その時代は、普通の町人の家には床の間などはない。住居でも、衣食のことでも、万事大層手軽なものであります。何でも手に一つの定職を習い覚え、握りっ拳で毎日幾金かを取ってくれば、それで人間一人前の能事として充分と心得たものです」(『幕末維新回顧談』)。「どうもこの頃の職人の生活などはすこぶる呑気なもので、月に一両二分もあれば親子五、六人は大した心配もせず、寝酒の一合ずつは飲んでいけた。
135p
光雲の父は晩年は楽隠居の身分となったが、元来手先が器用で人形や玩具を作るのが巧みな人で、還暦をすぎていろんな虫の細工物をこしらえ始めた。バッタやら赤トンボなど、本物そっくりに作りあげると、浅草田圃へ行って葦の葉をとってきて、それに虫をとまらせて悦に入っていた。そのうち、それを人出のある所へ行って並べてみると、通りすがりの者が買ってゆく。老人はその売り上げでお土産を家に買って帰るのが娯しみだった。老人にとってこれは商売ではなかった。自分の趣向を人様がよろこんでくれるのが嬉しいのであり、またお土産を家に持って帰るのが自慢なのだった。この時代の人びとの幸せはこういうところにあった。決して?い一生というだけではなかった。栖落っ気と風流な気分は、一介の庶民の一生にも優雅な花を添えたのである。
135p
『続近世崎人伝』は岸玄知という出雲侯の茶道方が梅樹を買った話を載せている。ある時郊外に遊んで、農家の傍らに梅が見事に咲いているのを見て、大金を与えて買い取った。しかし花の下で酒を酌むばかりで、梅の樹を持って行こうとしない。農夫がいつ移植するのかと問うと、わが家の庭は狭くて、こんな木を植える余地はない、ずっとここに置いておくと言う。それなら実がなりましたら届けましょうと言うのに玄知曰く、「吾は花をこそ賞すれ、実に望みなし、汝これをとれ」。農夫がおどろいて、ただ花を見るためなら、いつでも何日でもおいでください、お金はお返ししますと言うと、「人の花は見て面白からず、わが花にしてこそ興あれ」と玄知は答えたという。
136p
村尾嘉陵は清水徳川家の広敷用人を勤めた人で、休日ごとに近郊を探訪して紀行文を残した。
139p
嘉陵にとって浅間山とは何だったのだろうか。彼は美景を楽しんだのではない。山は眉墨のように遠くにしか見えなかったのだ。彼はただ浅間が恋しかった。恋しい人は遠くからでも一目見て胸に刻めばよいのである。世に高士英傑あリと聞けば、遠路を遠しとせずに訪うたように、当時の人は名山ありと知れば、一目でもそれと逢いたかった。登るわけではない。画に描くのでもない。ただあいまみえればよかったのだ。彼にとって名花も名刹も名山も一期一会の友であった。そういう出会いの積み重ねが生きるということだった。彼は蒐集家のように名所旧蹟のスタンプを集めたのではない。花にせよ庭園にせよ神社仏閣にせよ、あるいはささやかな言い伝えの残る旧蹟にせよ、それらは世界が彼に開示してくれる生の秘蹟だったのである。彼の目はあだおろそかにうろついてはいなかった。凝視があり、感銘があり、こみあげる万感というものがあった。
144p
江戸の郊外は訪なう人を裏切らぬ様々な情趣を備えていたらしい。十方庵は豊嶋郡徳丸が原は春になると一面に桜草が咲いて「佳興絶品」だと言っている。また葛飾郡の弐十五村はたてよこ一里の間桃林ならざるはなく、花時は世に名高い杉田の梅林の比ではないという。名物をあげれば、多摩郡宮本村の相生の松、那賀郡春貞寺の七種咲きわけの梅、足立郡芝村には三股の竹、水戸侯上屋敷には四方竹、小石川松平播磨守上屋敷の藤ときりがない。大久保百人町の同心組屋敷は束の木戸より西の木戸まで八町余り、いろとりどりの躑躅に埋まる。中でも飯嶋という同心の家は東西八間、南北二町余にわたって両側に躑躅が列をなす。青山百人町の同心組屋敷は高燈籠で名高い。例年盆のあいだ長い竿を何本も継いで燈籠を掲げ、その高さを競いあう。遠くから見れば空にきらめく星に似るというので、異名を星燈籠という。人びとの一生はこのような景物に彩られて過ぎた。名花も美景も、観る人を選びはしなかったのである。
8 旅ゆけば
153p
旅人の感懐をそそったのは各地の売春の形態であろう。出羽国の温海(現山形県)では、娘のいる家ではみな娘を遊女に出すのを習いとしており、これを浜のおばと呼ぶという(真澄『秋田のかりね』)。繁太夫が越後高田で見たところでは、当地の下女は「昼の内用向きを片付け、夜五つごろより隙をもらいて泊りに出る。夜明けて帰る」。二百文くらいでからだを売るのである。夜は外に出さぬという堅い家には、下女が言い合わせて奉公に来ないので詐すほかない。下女どころか、相応の女房娘も出ると繁太夫は言っている。
野田泉光院は長崎では娘を娼家に売るのを名誉と心得、娘をほめるのに、このご息女は三百目のご器量とか五百目の御顔色などと言い、親はそれを喜んでいると呆れ顔である。これは少々えげつないにしても、この時代の人びとの意識においては、遊廓といい遊女といい、それほどさげすむべきものではなかった。堺奉行土屋廉直の妻斐子は、東海道赤坂の宿で、遊女たちが三味線や笛で客の朝立ちを見送る光景を「艶なるあけぼのなり」と観た。また小田宅子は新吉原のおいらん道中を見て、「見るだにも心浮かるる面かげを誰が河竹のしづむといふや」と詠んでいる。遊女の身が悲惨とは露思わなかったのだ(柴桂子『近世おんな旅日記』)。頼山陽が母静子を島原の遊廓に登楼させ、花魁を総あげして盛宴を張ったのは有名な話だ。静子もこの遊びがたいそう気に入った(中村真一郎『頼山陽とその時代』)。清河八郎も江戸に遊んだ時、母を伴って吉原の大楼に登っている(『西遊草』)。遊廓は龍宮城のようなもので、女性が一見しても恥にはならなかったのである。
154p
161p
馬琴がかねて恩顧を蒙る某侯の家臣に、山本郷右衛門という足軽がいた。寛政四年、この者が飛脚として江戸に出て、またみちのくへ帰る折、奥州街道鍋掛の宿を通ると、はずれの坂に粗末な小屋がかけられ、父親と娘がその中にいた。これは回国の者で、父が重病で倒れ命も危うかったので、宿の者たちが憐れみ、小屋がけして親子を入れたのだという。少女が道行く者に袖乞いして露命をつないでいると聞いて郷右衛門、二朱銀一片に薬を添え、楊子挿しの袋に入れて与えた。その後寛政八年、郷右衛門はまた飛脚をうけ承って江戸に出、ある日誘われて新吉原江戸Wの丸海老屋という青楼に登ったところ、夜が更けてから清花という妓から果物が届いた。心当りのさっぱりない郷右衛門、清花なる妓と会ってみたところ、それが鍋掛の宿で施しをした少女だったのである。何よりも与えた楊子挿しの袋が証拠であった。
162p
話を聞くと、この親子は越後高田の者で、母が長病で亡くなった頃、ひでりやら水損やらで暮しの立ちゆかなくなった父親が、なき人の菩提のためとて、娘を連れて回国の途についたのであった。施しを受けたあと間もなく父は世を去ったが、御顔をよく覚えておいて、再会の折には御礼申せと少女に言い聞かせていた。「はじめかの鍋掛にて、御身に会いしは、十四のときにて、本の名をそよといえり。あじきなき世にながらえて、はや十八になり侍り」と言って、娘は泣いたということだ。
渡辺京二『江戸という幻景』5 ― 2015年02月10日 00:00
『江戸という幻景』渡辺京二/弦書房
http://genshobo.com/?p=597
6 家業と一生
111p
甚太夫の家は若狭国三万郡久々子村で農業のほかに金貸し、商業、漁業などを営み、身分は庄屋などの村役人ではなくただの百姓にすぎないけれど富裕だった。代々甚太夫を名乗ったが、ここでとりあげるのは文化四年に生れ、明治五年に死んだ八代目甚太夫である。この男は少年の頃から機才あり、一生を通じてその才をいろいろな方面で存分に発揮した。
とにかくこの男に頼めば何とかしてくれると思わせるものがあったのか、三十一歳のときに若狭藩御用金の調達を請け負い、伝手から伝手を介して、紀州藩熊野三山貸付所(奈良)からみごと二千両を借り出して面目を施した。彼自身も六十両の手数料を得たのである。
続いて鯖江藩から二千両の調達を依頼され、大津の豪商の応諾をえたが、藩役人の交替があって、この金は彼を素通りして鯖江藩へ入り、ただ働きに終った。
ちなみに熊野三山貸付金というのは、三山には寺領がないため、徳川吉宗の下賜金二千両を元手に領民に貸付けを行い、その利子で三山の維持を計ったもので、その管理は紀州藩の行うところだった。この事業が文政十二年に拡大されて、江戸藩邸に三山貸付所が設けられ、大名・社寺・町人相手に金融を行い、続いて京・大坂・奈良などにも貸付所が置かれ、当時の一大金融機関となった(安藤精一『和歌山県の歴史』)。甚太夫はこの出現して間もない金融機関を早速利用したのである。
114p
武士の場合はどうだったろうか。川路聖謨は日記や遺書の中に、武士は「人殺し奉公」だとはっきり書いている。……
118p
聖謨は生涯四人の妻をめとり、妾を二人抱えた。まさに鈴木牧之の場合とひとしい。前記したように最初の妻とは死別したのだが、次に迎えたやすは婚後十二年たって離婚した。彼女は嫡男弥吉のほか二女を産んでいたのだから、これはよほどのことだった。彼自身が遺書にその事情を書いいかる。…(略)…
次にめとった高橋氏の娘は、おとなしくて悪いところもなかったが、何しろ下女の取り扱いも出来かねる風だったので、これまた「余儀なく離縁」。持参の衣裳はむろん、再婚の含みで金子も持たせてやった。四度目に迎えたのが大越さと。これが当った。しかし子は生れなかった。次男市三郎は妾腹。生れたのはやすが妻であった時である。別の妾からは二人の男子が生れた。これは聖謨が六十歳をすぎての子である。
119p
聖謨の結婚歴を見ると、江戸時代の結婚とは試行錯誤的に何度でも離婚・再婚を繰り返して、もっとも適当な相手を見つけて落着くというていのものだったことがわかる。女にしても、貞女二夫にまみえずなどということはなかった。聖謨の長男が病死したあと、川路家は長男の妻の再婚に骨折っている。
聖誤がおさとを奉っていたのは間違いない事実だ。長崎でロシア使節に、わが妻は江戸随一の美人なり、早く交渉を終らせて顔が見たいと語ったのは冗談だったにしても、奈良奉行の時、情夫が殺された一件で、当の女が白州に引き出されたのを見ると珍らしいほどの醜婦だったので、「これにて人一人死せしやと大いに感あり」、白州から帰っておさとの前に膝行し、礼拝して大いにうやまってみせたというのを見ると、持ち前のおどけ癖ながら、本音は幾分妻のろに
近かったのである。おさとが驚いて「狂気でもなさったのか」と言うのに、「いやいや、なかなか左にあらず。実は今日かくかくの次第なり。かかる女に命捨つる者もあるかと思えば、今までわが婆のまんじゅうの和もの、鮪のすきみなどと言いしはいともかしこく、あらありがたや、もったいなやと、天にも地にもあもずかかを貴(とうと)く思えば、かくうやまうなり」と答えると、一座の者がたまりかねて吹き出した。
このように妻を愛しながら、その後妾を抱えて二児を産ませたのだから、昔の武士のならわしは得心がゆかぬという向きもあろう。しかし聖謨はかなりの女好きで、そのことを人に隠そうとはしなかった。むろん女に関して行いが乱れたことはなかったけれど、性に関する冗談はこの人行住座臥のことだった。長崎でロシア人と交渉した時も、雰囲気を和らげるためだろうが、しばしば女の話題を持ち出して交渉相手のゴンチャロフからシニックと評されている。ロシア人の中に美少年を見つけると、呼び寄せて「もう女を知っているか」と問う。少年ははにかんで顔を赤らめたとのことだが、この人は相手の心にはいりこむ手段として性を話柄とするのである。『寧府紀事』にも工ロティックな話がしばしば録されている。
120p
聖謨が妾を抱えたのは、おそらく欲望が強かったからではあるまいか。彼は『寧府紀事』の中で「房事もおびただしくしたく候」と書いている。このあと、しかし「老母のありて五十近き身」、慎んでいるからご安心をと続くのだが、つまりはおさとさんがよほどよろしかったのであろう。それにしても、こんなことを母に書いてやるのだから、当時の性についてのこだわりのなさには驚く。しかし驚くのはまだ早い。彼はおさとさんとの房事の回数を、今月は二度、三度と母に告げ知らせているのだ。そんなには致して居りませんからご安心をという意味なのだが、まったくどうなっているのかと言いたい。しかし、このあけすけなところが、この人の真骨頂であり魅力でもあった。この人は天性のユーモりストで、白州でも冗談、駄じゃれを連発し、列座の与力たちが笑うわけにはゆかず、窮して顔をわきに向けるほどだった。『寧府紀事』(日本史籍協会叢書)の解説者が、「彼が若し素浪人の子で終ったら、或は戯作者として結構生活したかも知れない」というのももっともである。察するに、性は彼にとってユーモアの領域に属する事柄であったようだ。
121p
性に関する聖謨のはばかりのなさは、例をあげればきりがない。円照寺宮に伺候したとき、おつきの老尼が聖謨の指に槍だこがあるのを見て、「あずま男には指にさえたこがある。人知れぬところまであのようならばさぞ味がよかろう」とよだれを流したそうだと母に書いてやる。まったくわるい人だ。また家来の高村俊蔵に、まだ五歳なのに大人を驚かせるような利発な娘がいたが、その子が遊びに来ると「汝は春気にてそめが俊蔵に抱かれて寝るを蜘怒や」とからかう。そめは俊蔵の妻である。少女は「それはマアよろしゆうござりますが、御前のおつむりに怪しからぬフケが見えます」と「まきちらす」。性の話題は女性や子どもが相手でも、平気でできるのがこの時代の雰囲気であった。
125p
聖謨は幕府瓦解のときピストル自殺を遂げた。徳川家に殉じた唯一の幕臣と言われる。さとは明治十六年になって、『ね覚めのすさび』と称する回想記を書いた。聖謨に対する敬慕溢れる文章である。聖謨の初七日に大正寺の墓に詣でた。「道すがら上野の山、時知り顔に咲く花は匂えど、世の中春ならねば見る心もなし」。新墓にしきみの花を供えてぬかづき、在りし日のことや変りゆく世を訴えても、ただ吹く風の音が聞こえるばかりだったと彼女は書いている。
http://genshobo.com/?p=597
6 家業と一生
111p
甚太夫の家は若狭国三万郡久々子村で農業のほかに金貸し、商業、漁業などを営み、身分は庄屋などの村役人ではなくただの百姓にすぎないけれど富裕だった。代々甚太夫を名乗ったが、ここでとりあげるのは文化四年に生れ、明治五年に死んだ八代目甚太夫である。この男は少年の頃から機才あり、一生を通じてその才をいろいろな方面で存分に発揮した。
とにかくこの男に頼めば何とかしてくれると思わせるものがあったのか、三十一歳のときに若狭藩御用金の調達を請け負い、伝手から伝手を介して、紀州藩熊野三山貸付所(奈良)からみごと二千両を借り出して面目を施した。彼自身も六十両の手数料を得たのである。
続いて鯖江藩から二千両の調達を依頼され、大津の豪商の応諾をえたが、藩役人の交替があって、この金は彼を素通りして鯖江藩へ入り、ただ働きに終った。
ちなみに熊野三山貸付金というのは、三山には寺領がないため、徳川吉宗の下賜金二千両を元手に領民に貸付けを行い、その利子で三山の維持を計ったもので、その管理は紀州藩の行うところだった。この事業が文政十二年に拡大されて、江戸藩邸に三山貸付所が設けられ、大名・社寺・町人相手に金融を行い、続いて京・大坂・奈良などにも貸付所が置かれ、当時の一大金融機関となった(安藤精一『和歌山県の歴史』)。甚太夫はこの出現して間もない金融機関を早速利用したのである。
114p
武士の場合はどうだったろうか。川路聖謨は日記や遺書の中に、武士は「人殺し奉公」だとはっきり書いている。……
118p
聖謨は生涯四人の妻をめとり、妾を二人抱えた。まさに鈴木牧之の場合とひとしい。前記したように最初の妻とは死別したのだが、次に迎えたやすは婚後十二年たって離婚した。彼女は嫡男弥吉のほか二女を産んでいたのだから、これはよほどのことだった。彼自身が遺書にその事情を書いいかる。…(略)…
次にめとった高橋氏の娘は、おとなしくて悪いところもなかったが、何しろ下女の取り扱いも出来かねる風だったので、これまた「余儀なく離縁」。持参の衣裳はむろん、再婚の含みで金子も持たせてやった。四度目に迎えたのが大越さと。これが当った。しかし子は生れなかった。次男市三郎は妾腹。生れたのはやすが妻であった時である。別の妾からは二人の男子が生れた。これは聖謨が六十歳をすぎての子である。
119p
聖謨の結婚歴を見ると、江戸時代の結婚とは試行錯誤的に何度でも離婚・再婚を繰り返して、もっとも適当な相手を見つけて落着くというていのものだったことがわかる。女にしても、貞女二夫にまみえずなどということはなかった。聖謨の長男が病死したあと、川路家は長男の妻の再婚に骨折っている。
聖誤がおさとを奉っていたのは間違いない事実だ。長崎でロシア使節に、わが妻は江戸随一の美人なり、早く交渉を終らせて顔が見たいと語ったのは冗談だったにしても、奈良奉行の時、情夫が殺された一件で、当の女が白州に引き出されたのを見ると珍らしいほどの醜婦だったので、「これにて人一人死せしやと大いに感あり」、白州から帰っておさとの前に膝行し、礼拝して大いにうやまってみせたというのを見ると、持ち前のおどけ癖ながら、本音は幾分妻のろに
近かったのである。おさとが驚いて「狂気でもなさったのか」と言うのに、「いやいや、なかなか左にあらず。実は今日かくかくの次第なり。かかる女に命捨つる者もあるかと思えば、今までわが婆のまんじゅうの和もの、鮪のすきみなどと言いしはいともかしこく、あらありがたや、もったいなやと、天にも地にもあもずかかを貴(とうと)く思えば、かくうやまうなり」と答えると、一座の者がたまりかねて吹き出した。
このように妻を愛しながら、その後妾を抱えて二児を産ませたのだから、昔の武士のならわしは得心がゆかぬという向きもあろう。しかし聖謨はかなりの女好きで、そのことを人に隠そうとはしなかった。むろん女に関して行いが乱れたことはなかったけれど、性に関する冗談はこの人行住座臥のことだった。長崎でロシア人と交渉した時も、雰囲気を和らげるためだろうが、しばしば女の話題を持ち出して交渉相手のゴンチャロフからシニックと評されている。ロシア人の中に美少年を見つけると、呼び寄せて「もう女を知っているか」と問う。少年ははにかんで顔を赤らめたとのことだが、この人は相手の心にはいりこむ手段として性を話柄とするのである。『寧府紀事』にも工ロティックな話がしばしば録されている。
120p
聖謨が妾を抱えたのは、おそらく欲望が強かったからではあるまいか。彼は『寧府紀事』の中で「房事もおびただしくしたく候」と書いている。このあと、しかし「老母のありて五十近き身」、慎んでいるからご安心をと続くのだが、つまりはおさとさんがよほどよろしかったのであろう。それにしても、こんなことを母に書いてやるのだから、当時の性についてのこだわりのなさには驚く。しかし驚くのはまだ早い。彼はおさとさんとの房事の回数を、今月は二度、三度と母に告げ知らせているのだ。そんなには致して居りませんからご安心をという意味なのだが、まったくどうなっているのかと言いたい。しかし、このあけすけなところが、この人の真骨頂であり魅力でもあった。この人は天性のユーモりストで、白州でも冗談、駄じゃれを連発し、列座の与力たちが笑うわけにはゆかず、窮して顔をわきに向けるほどだった。『寧府紀事』(日本史籍協会叢書)の解説者が、「彼が若し素浪人の子で終ったら、或は戯作者として結構生活したかも知れない」というのももっともである。察するに、性は彼にとってユーモアの領域に属する事柄であったようだ。
121p
性に関する聖謨のはばかりのなさは、例をあげればきりがない。円照寺宮に伺候したとき、おつきの老尼が聖謨の指に槍だこがあるのを見て、「あずま男には指にさえたこがある。人知れぬところまであのようならばさぞ味がよかろう」とよだれを流したそうだと母に書いてやる。まったくわるい人だ。また家来の高村俊蔵に、まだ五歳なのに大人を驚かせるような利発な娘がいたが、その子が遊びに来ると「汝は春気にてそめが俊蔵に抱かれて寝るを蜘怒や」とからかう。そめは俊蔵の妻である。少女は「それはマアよろしゆうござりますが、御前のおつむりに怪しからぬフケが見えます」と「まきちらす」。性の話題は女性や子どもが相手でも、平気でできるのがこの時代の雰囲気であった。
125p
聖謨は幕府瓦解のときピストル自殺を遂げた。徳川家に殉じた唯一の幕臣と言われる。さとは明治十六年になって、『ね覚めのすさび』と称する回想記を書いた。聖謨に対する敬慕溢れる文章である。聖謨の初七日に大正寺の墓に詣でた。「道すがら上野の山、時知り顔に咲く花は匂えど、世の中春ならねば見る心もなし」。新墓にしきみの花を供えてぬかづき、在りし日のことや変りゆく世を訴えても、ただ吹く風の音が聞こえるばかりだったと彼女は書いている。
渡辺京二『江戸という幻景』4 ― 2015年02月09日 00:00
『江戸という幻景』渡辺京二/弦書房
http://www.amazon.co.jp/dp/4902116219
6 家業と一生
100p
前代の人びとにとって仕事が決して労役ではなく、生命活動そのものだったことが自然に納得されて来る。労働は神聖だとか、生産は尊いなどというのではない。そんなものは近代のイデオロギーである。ただ、働くのは天の人間に与えた使命だという感覚はたしかにあった。家業は近代でいう職業ではない。それは運命が与えたその人の存在形態であって、家業に精出すのは生命活動そのものにほかならなかった。天とは運命の別名であり、天の命ずるところに従っておのれの職分に励むのは、人が人としての命を全うすることだった。ここには、かのプロテスタンティズムの天職・召命観にかなり類似した観念の成立が認められる。しかし徳川期の天職観はあくまで家を基軸として成立した。近代人にとって束縛以外の何ものでもない家は、前代の人びとにとって、おのれの生命活動を天の意志として定位するためのシステムだったといって誤らない。それゆえ人びとは家を重んじた。家のためにおのれを犠牲にする、などというのは後代の解釈である。家はおのれの生涯に意味を与え、おのれの生命活動によろこびを与える根源だった。
101p
牧之の父は牧之が三十八の時、七十一歳で死んだ。大変きびしくうるさい人であったが、死の前日に、牧之が今生におもい遣すことはないかと聞くと、「義惣治という跡継ぎを持ちて、さらにこの世におもい遣すことない男だ」と「言舌鮮やかに」答えた。義惣治というのは牧之の通り名である。牧之のよろこびは如何様であったろう。この父親は牧之の日頃の努めようから、自分なき後もこの家が健在であるという確信が持てたのである。家が存続するというのは、おのれの生命が継がれるということだった。思い遺すことのあろうはずはない。そして、そのように父を満足のうちに逝かせるのはまた牧之自身の満足でもあった。
こういう前代の人びとのよろこびは、現代人の最も縁遠く、従って理解の困難な心性に属する。おのれの欲望や自堕落を制して、日々仕事にいそしむということが、精神に硬直や偏りをもたらす自己抑圧とみなされ、気侭やぐうたらが精神解放の早道として鐘太鼓入りで唱道されるのが現代である。だがそういう現代の眼鏡を通したのでは、江戸期の人びとが何をよろこびとし悲しみとしたかということは絶対に見えて来ない。
102p
地方の有力者である鈴木の家の嫡男牧之にとって、結婚の第一義的な意味は、家を受け継いで手落ちなく経営してゆく上での協力者の採用というところにあっただろうからである。経営メンバーの採用である以上、採用されてのち解雇されることがあるのは当然だ。採用と解雇にその時の家の当主たる両親の意向が大きな力をもつのは、これまた当然のことといわねばならない。
103p
今日における家の観念でこの時代の家を理解しようとしてはならない。江戸期においては、あらゆる家は家業をもっていた。家業は即その家の社会的責任を示すものであり、それに属する人びとの誇りの出どころでもあった。家がそのような一種の経営体である以上、嫁という新前人者が既成メンバーによって審査され教育されるのに、何の不思議もなければ不都合もない。今日会社はおなじことをやっているではないか。いったん会社に入っても、当人の勤めぶりが会社に合わぬとあれば、君はほかの仕事が向いているのではと、暗に転職を迫られることもある。かつての嫁の場合もおなじことであった。
104p
そもそも離縁を迫られるというのは、女と他の家族メンバーがうまくゆかぬということで、そのようにうまくゆかぬ家に居座っていても、不愉快であるばかりでなく、かえっておのれの将来を台無しにする。その場合、その家をおん出るのはむしろ将来を見越した得策というものだった。というのは当時、離婚歴はなんら再婚の障害にはならなかったからだ。江戸期の離婚率は相当に高い。そして離婚の結果が不幸であるとは限らぬ。『井関隆子日記』の主人公は、初婚に失敗したにもかかわらず、幸せな再婚生活を送っている。隆子は格式ある旗本家の娘だが、庶民の女の場合、一般に、一度の結婚でおのれの運命をきめてしまうのではなく、いくつか試みて最も自分に合った家に落ち着くというのが賢明で自主的な生き方であったようだ。
104p
三くだり半といえば、離縁状を持たされて泣く泣く実家へ返される哀れな嫁というイメージがたちどころに浮かぶけれど、それが全くの虚像にすぎぬことを明らかにしたのは高木侃の著書『三くだり半』である。かつては三くだり半の「我等勝手ニ付」という慣用文言は夫の専権離婚、すなわち一方的追い出しを示すものと理解されていたが、高木はそれが全くの誤りであり、離婚の責任が妻ではなくて夫の側にあることを示す文言であることを明らかにした。つまり離縁状とは離婚の責任が妻側になく、別れた以上妻の再婚に異議はない旨を確言するもので、それを与えるのは夫の権利ではなく義務なのである。三くだり半は妻の請求によって交わされるものであった。
107p
結婚に際し一生の変わることなき愛を誓うキリスト教的婚姻にくらべれば、うまくゆかなければ直ちに離婚して、何度でも結婚をやり直せばよいという江戸期の婚姻常識は、何ともりアりスティックな人性認識に支えられていて、一種の人生智とすらいってよい。だがそれは一面現実的すぎて、あまりにもわびしい認識ではあるまいか。しかもそのような結婚観は、個人の自由にもとづく今日の離婚ばやりと違って、あくまで家業の経営という要請が背景にあるだけに、現実的な分別がいっそう強く匂うのである。むろん当時も、男女は惚れ合うものであって現実的な分別ばかりで所帯を持ったわけでは毛頭ないが、それでもその惚れ合うというのは、西洋人が神の前で誓う愛とはよほど趣が違っていた。
109p
江戸人は男女間の関係を性愛、情愛にもとづく妥協的な結合、あくまで現実的必要に促された一種の協業関係と見る点で、愛の幻想などに煩わされることのない徹底したリアリストだった。だから彼らはこの世にたった一人しかいない恋人など想像したこともなく、事情に従って何度も結婚と離婚を繰り返した。だが、夫婦になっているのはたまたまさとでも言いたげな彼らのたたずまいに、何か吹き抜けてゆく木枯らしのようなわびしさを覚えるのはどうしたことだろうか。それはまさにわれわれが近代を知ったということにほかならない。
110p
近代が到来したというのは、おのおのが自己の人格を自覚した個人にならねばならぬということを意味した。個であるがゆえに人は、おのれが家の一員であった時には必要としなかった近代的な愛の幻想を追い求める。われわれが鈴木牧之の前後四回の離婚歴になにか釈然としないのはそのためであろう。われわれの眼には、江戸時代の夫婦というものがかなり情の薄いもののように映る。むろん彼らの間に連れ添うものの情愛があったのを疑うのではないが、当然あるべき深い精神的な絆が欠けているように思えるのだ。『東海道中膝栗毛』は戯作ではあるけれども、その発端の章を読むと、仮にも夫婦であったものがそんなにあっさりと別れてよいものかと、違和の念に捉えられてしまう。結婚を人格的結合とみなし、その核心に情熱的な恋愛を仮定するのは近代の発見である。発見は前代に対するひとつの優位性である。だがそれは愛の幻想に捉われて苦しむことでもあった。江戸人はそのような苦しみを知らなかった。そしてこれはとりもなおさず、江戸という前代の現代に対する優位性なのである。
家業の重みを担い通すことが現代人の考えるような苦業ではなく、牧之の一生を意味づけるよろこびだったことを認めるにせよ、それがある種の束縛であったことは否定できない。しかし家業とは、もっと自由で奔放なものでありえた。少くとも川渡甚太夫という男の一生は私たちにそう教えてくれる。
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6 家業と一生
100p
前代の人びとにとって仕事が決して労役ではなく、生命活動そのものだったことが自然に納得されて来る。労働は神聖だとか、生産は尊いなどというのではない。そんなものは近代のイデオロギーである。ただ、働くのは天の人間に与えた使命だという感覚はたしかにあった。家業は近代でいう職業ではない。それは運命が与えたその人の存在形態であって、家業に精出すのは生命活動そのものにほかならなかった。天とは運命の別名であり、天の命ずるところに従っておのれの職分に励むのは、人が人としての命を全うすることだった。ここには、かのプロテスタンティズムの天職・召命観にかなり類似した観念の成立が認められる。しかし徳川期の天職観はあくまで家を基軸として成立した。近代人にとって束縛以外の何ものでもない家は、前代の人びとにとって、おのれの生命活動を天の意志として定位するためのシステムだったといって誤らない。それゆえ人びとは家を重んじた。家のためにおのれを犠牲にする、などというのは後代の解釈である。家はおのれの生涯に意味を与え、おのれの生命活動によろこびを与える根源だった。
101p
牧之の父は牧之が三十八の時、七十一歳で死んだ。大変きびしくうるさい人であったが、死の前日に、牧之が今生におもい遣すことはないかと聞くと、「義惣治という跡継ぎを持ちて、さらにこの世におもい遣すことない男だ」と「言舌鮮やかに」答えた。義惣治というのは牧之の通り名である。牧之のよろこびは如何様であったろう。この父親は牧之の日頃の努めようから、自分なき後もこの家が健在であるという確信が持てたのである。家が存続するというのは、おのれの生命が継がれるということだった。思い遺すことのあろうはずはない。そして、そのように父を満足のうちに逝かせるのはまた牧之自身の満足でもあった。
こういう前代の人びとのよろこびは、現代人の最も縁遠く、従って理解の困難な心性に属する。おのれの欲望や自堕落を制して、日々仕事にいそしむということが、精神に硬直や偏りをもたらす自己抑圧とみなされ、気侭やぐうたらが精神解放の早道として鐘太鼓入りで唱道されるのが現代である。だがそういう現代の眼鏡を通したのでは、江戸期の人びとが何をよろこびとし悲しみとしたかということは絶対に見えて来ない。
102p
地方の有力者である鈴木の家の嫡男牧之にとって、結婚の第一義的な意味は、家を受け継いで手落ちなく経営してゆく上での協力者の採用というところにあっただろうからである。経営メンバーの採用である以上、採用されてのち解雇されることがあるのは当然だ。採用と解雇にその時の家の当主たる両親の意向が大きな力をもつのは、これまた当然のことといわねばならない。
103p
今日における家の観念でこの時代の家を理解しようとしてはならない。江戸期においては、あらゆる家は家業をもっていた。家業は即その家の社会的責任を示すものであり、それに属する人びとの誇りの出どころでもあった。家がそのような一種の経営体である以上、嫁という新前人者が既成メンバーによって審査され教育されるのに、何の不思議もなければ不都合もない。今日会社はおなじことをやっているではないか。いったん会社に入っても、当人の勤めぶりが会社に合わぬとあれば、君はほかの仕事が向いているのではと、暗に転職を迫られることもある。かつての嫁の場合もおなじことであった。
104p
そもそも離縁を迫られるというのは、女と他の家族メンバーがうまくゆかぬということで、そのようにうまくゆかぬ家に居座っていても、不愉快であるばかりでなく、かえっておのれの将来を台無しにする。その場合、その家をおん出るのはむしろ将来を見越した得策というものだった。というのは当時、離婚歴はなんら再婚の障害にはならなかったからだ。江戸期の離婚率は相当に高い。そして離婚の結果が不幸であるとは限らぬ。『井関隆子日記』の主人公は、初婚に失敗したにもかかわらず、幸せな再婚生活を送っている。隆子は格式ある旗本家の娘だが、庶民の女の場合、一般に、一度の結婚でおのれの運命をきめてしまうのではなく、いくつか試みて最も自分に合った家に落ち着くというのが賢明で自主的な生き方であったようだ。
104p
三くだり半といえば、離縁状を持たされて泣く泣く実家へ返される哀れな嫁というイメージがたちどころに浮かぶけれど、それが全くの虚像にすぎぬことを明らかにしたのは高木侃の著書『三くだり半』である。かつては三くだり半の「我等勝手ニ付」という慣用文言は夫の専権離婚、すなわち一方的追い出しを示すものと理解されていたが、高木はそれが全くの誤りであり、離婚の責任が妻ではなくて夫の側にあることを示す文言であることを明らかにした。つまり離縁状とは離婚の責任が妻側になく、別れた以上妻の再婚に異議はない旨を確言するもので、それを与えるのは夫の権利ではなく義務なのである。三くだり半は妻の請求によって交わされるものであった。
107p
結婚に際し一生の変わることなき愛を誓うキリスト教的婚姻にくらべれば、うまくゆかなければ直ちに離婚して、何度でも結婚をやり直せばよいという江戸期の婚姻常識は、何ともりアりスティックな人性認識に支えられていて、一種の人生智とすらいってよい。だがそれは一面現実的すぎて、あまりにもわびしい認識ではあるまいか。しかもそのような結婚観は、個人の自由にもとづく今日の離婚ばやりと違って、あくまで家業の経営という要請が背景にあるだけに、現実的な分別がいっそう強く匂うのである。むろん当時も、男女は惚れ合うものであって現実的な分別ばかりで所帯を持ったわけでは毛頭ないが、それでもその惚れ合うというのは、西洋人が神の前で誓う愛とはよほど趣が違っていた。
109p
江戸人は男女間の関係を性愛、情愛にもとづく妥協的な結合、あくまで現実的必要に促された一種の協業関係と見る点で、愛の幻想などに煩わされることのない徹底したリアリストだった。だから彼らはこの世にたった一人しかいない恋人など想像したこともなく、事情に従って何度も結婚と離婚を繰り返した。だが、夫婦になっているのはたまたまさとでも言いたげな彼らのたたずまいに、何か吹き抜けてゆく木枯らしのようなわびしさを覚えるのはどうしたことだろうか。それはまさにわれわれが近代を知ったということにほかならない。
110p
近代が到来したというのは、おのおのが自己の人格を自覚した個人にならねばならぬということを意味した。個であるがゆえに人は、おのれが家の一員であった時には必要としなかった近代的な愛の幻想を追い求める。われわれが鈴木牧之の前後四回の離婚歴になにか釈然としないのはそのためであろう。われわれの眼には、江戸時代の夫婦というものがかなり情の薄いもののように映る。むろん彼らの間に連れ添うものの情愛があったのを疑うのではないが、当然あるべき深い精神的な絆が欠けているように思えるのだ。『東海道中膝栗毛』は戯作ではあるけれども、その発端の章を読むと、仮にも夫婦であったものがそんなにあっさりと別れてよいものかと、違和の念に捉えられてしまう。結婚を人格的結合とみなし、その核心に情熱的な恋愛を仮定するのは近代の発見である。発見は前代に対するひとつの優位性である。だがそれは愛の幻想に捉われて苦しむことでもあった。江戸人はそのような苦しみを知らなかった。そしてこれはとりもなおさず、江戸という前代の現代に対する優位性なのである。
家業の重みを担い通すことが現代人の考えるような苦業ではなく、牧之の一生を意味づけるよろこびだったことを認めるにせよ、それがある種の束縛であったことは否定できない。しかし家業とは、もっと自由で奔放なものでありえた。少くとも川渡甚太夫という男の一生は私たちにそう教えてくれる。
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