渡辺京二『日本近世の起源』8 ― 2015年02月21日 00:00

『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二/洋泉社MC新書

http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643

第四章 山論・水論の界域

078p-弓立社

 中世社会の特徴は各種各級の裁判権が並立していたところにある。幕府、公家、荘園領主がそれぞれ独自な立法を行なっただけではない。守護・地頭はもちろん、惣村までが死刑をも含む裁判権を保有していたのである。しかも中世人にとって訴訟は紛争解決の一手段にすぎず、法廷の外に開けているのは広大な自力救済の世界だった。普遍的な法が存在せず、仮に存在したところでそれを執行実現する統一権力の欠如している世界では、権利は武力を含む実力で主張・防衛せざるをえなかった。

 権利はたんに個人のものであったのではない。個人はあくまでも集団のなかの個人としてあった。これを個人が集団に埋没していたといっては不正確になる。個人を権利と義務の主体という側面でとらえるなら、個人の個たるゆえんは集団においてこそ保証され、集団を離れては人は個であることができなかった。

なんらかの非行によって集団を追放された者は、この世界に属さないものとして平和を喪い、異形のものとして彷徨するしかない。人が集団に属するというのはそういう重味をもつ事実だった。集団は個の生きる場である。だとすれば、おのれの属する集団が自力でその権利を防衛しようとするとき、人はそこに自己の生命を賭けざるをえない。自力救済の主体はあくまで集団だった。山論・水論の特異な世界はそこにひらけた。

079p
 琵琶湖北端に位置する菅浦と大浦は十四世紀からきびしい抗争を繰返してきたが、文安二(一四四五)年の入会山をめぐる紛争では、双方とも近郷の村々に合力を求め、相手の集落に押し寄せて「散々ニ合戦」に及んでいる。

たとえば七月十日の大浦攻めで菅浦方は十五名の戦死者を出したが、合戦のたびごとに被害はたんに「刃傷」にとどまらず、放火、刈田、田畠ふみあらしなど、まさに領主間戦争に用いられる常套手段が、はばかりなく行使されたのだった。戦闘も鎌や竹槍を持ち出したわけではない。「矢いくさ」とあるように、武士顔負けの本格的な合戦だったのである。この抗争によって両村は荒廃疲弊の極に達したといわれる。

 時代は下って天正六(一五七八)年に始まる紀伊国荒川庄と田中庄間の「山公事」を見よう。このときの合戦では荒川方は橋口甚太郎を大将として二千五百、対する田申方は二千八百で、団九郎というつわものが甚太郎の首をとり、田中方優勢のうちに暮に及んで双方兵を引いた。

翌日、荒川方は稲葉左内を大将として雪辱を期し、団九郎以下六名の頭取、十八名の雑兵を討ちとり、「凱歌を揚て」引きあげた。田中方は潰走したのであろう。二十四名の死体は野中にうち棄てられ、哀れ至極のありさまだったと記録は伝える。荒川方の死者は三名、手負いは三百余名だった。大将がおり雑兵がいるといった具合で、まさに本格的な合戦だったことがわかる。数千規模の動員は近郷の合力があったことを物語る。

082p
それはおのれの必要とするものを他者との関係ぬきにおのれのものと認定する自由であって、その認定を裏づけるのは暴力(ゲヴァルト)である。すなわちそれはホッブスのいう狼の自由にほかならない。狼の自由の別名を弱肉強食という。野々瀬は「死傷者を数多く出すことにもなりかねない」というが、なりかねないどころか、そうなるのがこの種の紛争の常態だった。ということは強力な戦力を編成し得た方が主張を貫徹したわけで、これはまさに強者の自由といわねばならない。

 問題の本質は当時の惣村が他の社会構成単位と同様、武力による自己救済権を保有していたことにある。水争い山争いで相手の村民を打ち殺してもなんら異様なことではなく罪にも問われなかったというのは、惣村が交戦権を保持する小国家まがいの存在だったことを意味する。今日国家間の武力紛争で、兵士が敵国の兵士を殺害してもなんら犯罪を構成しないのと事情はまったく同一である。

しかしそのような主張を保持し、それにもとづいて権利・利害を争う相手国に対して武力行使の自由を持つからといって、そのような国民国家のありかたを、資源を含む係争物に関する自律的な決定権を保有するなどと讃美できるものだろうか。中世村落の自由と自律への思いいれは、根本的な倒錯を含んでいる。

 豊臣政権は村落間の紛争にあたって武力沙汰に及ぶことを禁圧し、強硬な態度で臨んだ。『多聞院日記』のいう八十三名という刑死者の数字は、他の諸記録に徴して正確とは思われないが、数十名にのぼったことは確実である。この数字は十分私たちをおどろかすが、当時において刑罰がほとんど死刑のかたちをとったのは、なにも権力のレベルだけではない。村落内での自検断による刑罰をみても、若衆組は蕨粉盗みの犯人だけでなく、その母親や子どもまでみな殺しにしたのだ。

 豊臣政権はしかも、村落間の山林・用水をめぐる紛争自体を禁圧したのではない。禁圧・処断の対象はあくまで武力衝突だった。豊臣政権自体の評価はさておいて、いやしくも一国規模で統一政権を樹立したものが、国内における各集団の暴力(ゲヴァルト)による問題解決を禁止し、殺人者を処罰するのは当然ではないか。そのことをもって自由と自律の否定とみなすのは、反国家の情念を核心とする戦後左翼に特有の倒錯である。
083p

084p
 琵琶湖の東岸にある安治村は湖岸の蘆刈場の所有をめぐって隣村と争っていたが、天正九(一五八二)年の村掟では、紛争において手柄を立てた者には褒美二千文(ちなみに密告の褒美の十倍)を与える一方、紛争現場に出合うのを怠った者には過怠銭五百文を課し、悪質な者は村八分に処すと定めている。紛争の犠牲者はもちろん手厚く補償された。

隣村との紛争の現場で、村を代表してロ上を述べる使者役をつとめ、相手村の者から「たゝきころ」された彦四郎の息子には、「村役=家役と領主役=高役の双方を一代かぎり免除する」という補償措置がとられた。むろん領主に対する年貢(高役)は村が肩代りするのである。

このような他村とのなわばり争いにおける村民の働きを賞罰し、犠牲者を補償する方式は、近代国民国家の遂行する他国との戦争における戦功への勲章の授与、徴兵忌避者の処罰、負傷者・戦死者遺族への補償という周知の方式とどこが違うのだろうか。安治村は一例にすぎない。このような慣行は十五、六世紀の在地で広く行われていたばかりではなく、徳川期農村にも引き継がれた。