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    <title>熊野の森の再生のために</title>
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    <pubDate>Sat, 20 Jun 2015 10:48:04 +0900</pubDate>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』１９</title>
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      <pubDate>Wed, 04 Mar 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;『&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;日本近世の起源&lt;/SPAN&gt;―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;終章　　日本近世は何を護ったか&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;220p☆&lt;BR&gt;　徳川体制の成立とは要するに、全国統一とはいうものの、戦国期を通じて形成された地域的小国家をそのまま温存して、徳川政権に臣従ぜしめたものだった。むろん戦国期の小国家は独立性の大半を喪って、徳川中央政府の統制に服しはしたものの、彼自身戦士である大名は戦国期を戦い抜く戦闘専業者集団すなわち家臣団もろともに、頭から爪先まで武装して安堵された領国に居据わったのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;高木昭作が「近世においては国土それ自体がひとつの巨大な兵営であった」と言うのは、彼なりの独特な含意においてであるが、もっと普通の意味で、つねに臨戦体制にある幕府と各藩が、少くとも島原の乱の頃までは一種の「兵営国家」的性格を帯びていたのは、否むことのできぬ事実だろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　ところがこの「兵営国家」が、少くとも十八世紀初頭までには、同時代でも珍らしい「平和国家」、殺伐の気が毛ほどもなく、社会的緊張もほとんど緩んだ駘蕩たる社会、ケムペルによれは「世界のどこの国からも煩わされずに安穏に生活し、極めて明るい自制と悦楽に明け暮れ」ている社会に変貌したのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;なにゆえ、いかにしてと問うのはこの本の主題ではない。だが一言ですますならば、十六世紀という大転形期のあの流血と騒乱は、もともと徳川の平和をあがなうためのものだったのだと答えるしかあるまい。徳川の平和は武装した幕藩領主の連合によって実現した。しかしそれはいったん成立するや、武家支配社会の「兵営」的性格を骨抜きし、あけくは払拭するような方向性を当初から備えていたというべきである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;その意味で、「秀吉や家康らの支配に人々が服従したのは、その指導のもとに形成された新しい秩序が、むしろ好ましいものとして受け入れられたからこそであろう。そうでなく、もしそれが権力による一方的な抑圧や強制の結果であったすれは、そののち二七〇年間にわたって国内の平和が維持されたという事実を、どのようにして合理的に説明することができるのであろうが」と尾藤正英が述べているのは説得的である。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;221p☆&lt;BR&gt;　徳川政権は秀吉権力のあとを受けて、戦国の分裂状況を克服し、平和と秩序をもたらした。その意義は大きい。しかし、国家強権において社会内の平和と秩序が創出されるというのは、いうまでもなく近代主権国家への第一歩にほかならない。私が、反国家というウルトラ近代的な視点から近代主権国家を否定する夢想家たちにくみするものでないことは、ここで断わっておく。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;しかし、近代主権国家こそ、土地と慣習に根ざした人間生活の自立・自存、すなわちイヴァン・イリイチ(Ivan Illich 1926～2002)のいうヴァナキュラーな（その地の暮らしに根ざした固有の）価値を殲滅した元凶である以上、そして人類の未来がこのヴァナキュラーな価値の再建という一点にかかっている以上、徳川期の有する近代性なるものを手放しで評価するわけにはいかない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;224p☆&lt;BR&gt;　徳川期の国家はむろん、西洋史における絶対主義段階との単純な同定を許す性格のものではない。だが、国家領域における統合を通じて産業と商業に全般的な繁栄をもたらしながら、人びとの自立・自存の基盤、イリイチ風にいうとヴァナキュラーな社会的「共有地」に干渉せず、しかも土地と労働の商品化を干渉的に阻止した点で、幕藩制国家と西洋絶対王政は奇しくも機能的な一致を示している。徳川期をたんに早期近代と見るだけでは、その期間を通してヴァナキュラーな価値の存続が許されたという重要な論点が欠落することになろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　徳川期の社会は、今日極相にまで到達した近代を批判的に照らし出すゆたかな啓示にみちている。そのような社会を可能ならしめた国家機構、さらにそこに花咲いた文化は、批判以前にまず理解すべきものとしてわれわれの眼前に在る。しかしそれはこの本の主題ではない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;私はそのような語義通りにユーニ一クな一文明が出現するまでの苛烈な道程を、従来の市民主義史学ないし左翼史学と全く反する視点で、しかし何人かの秀れた史家の助けを借りて読み解いてみようとしたにすぎない。いまや私のささやかな、しかし道中の難儀も乏しからぬ旅は終った。&lt;/DIV&gt;
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』１８</title>
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      <pubDate>Tue, 03 Mar 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>『&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;日本近世の起源&lt;/SPAN&gt;―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／洋泉社MC新書&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;&lt;BR&gt;第九章　領民が領主を選ぶ&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;206p☆-弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　こうした例は何を物語っているのだろうか。武家の給人つまり領主階級の一員となるより、領民として村に残るほうが、より生き甲斐のある世界を彼に提供したことはあきらかだ。村内における指導者としての声望、大地との関わりにおける生産、農村の美しい四季――それは選びとるに値いする世界だったのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;つまり、領主階級の一員として上昇する可能性を十分にもっていたひとりの地侍が、そうせずにあえて領民の地位を選択したという事実のうちに、新たに構築し直された領主―領民関係が、領民にとって望ましく受けいれるに足るものであったことがはっきりと示されている。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;208p&lt;BR&gt;　いわゆる「刀狩り」については、藤木久志の近年の研究が、その意義と実態を明らかにしつつある。刀狩り令が百姓の武具所持を禁止し、その没収を指令しているのは明白だが、「そこには、喧嘩停止令にも共通する、苛酷な自力の法の支配からの解放、という中世社会の歴史的な課題が、公然と掲げられている」と藤木は言う。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;しかもその実態は主として刀の没収であり、たとえぼ加賀国溝口氏の例では合計三九七三本のうち、槍がニ八〇本、ほかはみな刀・脇差・小刀の類で、鉄砲は一本もなかった。つまり「刀狩り令」は実態においては「百姓帯刀権を原則的に否定」する「身分規制の性格を強く帯びていた」。「標的は文字通り『刀』だったのです。それも村の武装解除どころか、並行して村では、神事の刀剣、旧家の帯刀、害獣用の鉄砲など、さまざまな武器の免許が行われました」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;209p&lt;BR&gt;　近世における民衆の武装解除という通説を、「農具としての鉄砲」という視点から切り崩したのは塚本学である。貞享四（一六八七）年、綱吉政権は諸国鉄砲改めを行ったが、それによると信州松本領では一〇四〇挺の鉄砲が村方にあった。一方領主たる水野家が所持する鉄砲は二三一挺でしかない。むろんこれは鳥獣と戦うための鉄砲であるのだが、このような在村鉄砲は領主も認めざるをえない実情だった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;綱吉政権は初めて在村鉄砲の規制にのり出すが、その政策は以後の幕政には継承されなかった。塚本は徳川政権が豊臣政権の刀狩り令を継承したというのは「史料によって実証された事実ではない」と言う。しかもその刀狩り令の実態は藤木によって明らかにされた通りなのだ。藤木によれは「近世を通して百姓らの脇指を携帯する慣行が、原理的に否定されることはなかった」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　藤木久志によれは、秀吉権力は初期から「個別領主・百姓間の紛争に公平な裁定者として臨む」という態度を示し、領主や代官と争いを起した百姓が最高権力に直訴するいわゆる「越訴」を認めていた。それは「村々の土一揆的な実力行使の広い展開（戦争）とその動きを、強訴すれすれの提訴（平和）に転化させることによって、切迫した百姓・代官の武力衝突の危機を回避しようとする、豊臣方の高度な政治の力わざ」なのだった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;そして「このような村から大名への『越訴』のシステムの成立は、じつに戦国期にさかのぼる」のである。徳川政権は百姓の幕府に対する「越訴」を禁じたというのが長い間の定説だったが、それも最近の研究によって否定されるに到った。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;210p☆&lt;BR&gt;　藤木は「豊臣の在地にむけた主な政策のぼとんどが、村の起請文を伴って実施されている」こと、すなわち「村に実施要綱を示し村の誓約を求める、という手続きを通して実現されてい」ることを指摘し、この手続きが「領主と百姓との間に設定された『合点』の回路にほかならず、まさにこの点で、百姓起請文は領主側の恣意を下から拘束しえた」とする。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;しかしこのような慣行は「豊臣政権の独創などではな」く、百姓連署の起請文は中世初期に「惣結合や荘家の一揆とともに、百姓申状とのセットというかたちをとって、すでに一般的に成立をみていた」のであって、「豊臣の政策は明らかに中世の『村々』の主体的な力量を基礎に、村と領主とのあいだのこうした起請の慣行を背景として成立していた」という。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　久留島典子は戦国期は百姓の自立志向を大名が抑えつけて支配を強化する時代であり、その過程を経て形成された徳川体制は百姓を厳しく土地に緊縛するものと考えられた時期もあったと前置きし、次のように述べる。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;「領主たちは確かに共同して百姓たちの動向に対応したが、それは百姓や従者をより厳しく緊縛し支配する体制というよりは、村や町の共同組織が形成されつつある状況に対応し、それを取り込む形で、その共同組織を通じて百姓・町人を支配する体制へと向かったのではないか――最近ではこう考えられるようになってきた」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;むろんこれは勝俣鎮夫の「村町制」の提唱に始まり、尾藤正英の徳川社会論にもつながってゆく今日の研究動向を指摘したものだが、いわゆる徳川の平和が支配と自治のせめぎあいを含む相互依存から生れた事情をよく語っている。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;領主は領国のうちに平和を実現すべき責任があるという、十五世紀に生まれた政治思想が、十六世紀にはひろく地下衆に浸透し、戦国大名の国家理念となって、ついに秀吉の統一国家を実現し、徳川の平和として現実に実を結んだのは、村々や町々に築きあげられた共同という社会的基礎があってこそだった。徳川の平和とは村々や町々に充ち溢れた豊かな生命の光であり、そのことは徳川の世が深まるにつれて明らかとなったのである。
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      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』１７</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/03/02/7672644</link>
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      <pubDate>Mon, 02 Mar 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;『&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;日本近世の起源&lt;/SPAN&gt;―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;第九章　領民が領主を選ぶ&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;198p☆&lt;BR&gt;　領主は領民を保護できるがらこそ領主であって、その能力のないものは領主として失格だというのは、十六世紀にはひろく成立していた観念である。それはまさに、領主の資格の認定者としての領民が歴史の動向を左右するものとして浮上したことを意味し、その意味で徳川体制という日本近世を出現させた原動力であった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　領主に対して、領内の平和と秩序を維持することを、その資格要件として求める思想は、佐藤進一によれば、十五世紀に武家支配者のなかに出現する。この時期、継嗣の決定にあたって、主人の意志より従者の協議決定のほうが優先する事態がひろく見られ、その場合重んじられたのは候補者の「器用」であった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;「将軍職も守護職も、さらに地頭御家人の所領といえども、職所有者の私物ではなく、職所有者にはそれぞれ日本国内・領国内・所領内の平和と秩序を維持する責任がある、したがって職所有者はその責任を全うする器用をもたねはならず、これを現実に保障するものはそれぞれの家臣の支持以体にない、と考えられている」。これは「鎌倉以来わが政治思想史に見え隠れにあらわれる徳治主義、およびこれと表裏をなす禅譲放伐の革命思想」に裏づけられだ、新しい「政治領域観」である。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;200p&lt;BR&gt;　戦国大名の地域主権国家の特徴は、まず領国の完結性である。戦国大名が定めた国内法には、自国民と他国民をはっきり区別する観念がみられる。つまり国と国民の観念が成立しているわけで、このようなとらえかたはすでに十五世紀の守護領国制のうちにはらまれ、国質という法習慣のうちに表われていた。国質とは、債務者が負債を返さない場合、債権者が債務者と同国人の身柄あるいは動産を差し押さえる行為で、先に紹介した郷質の拡大であり、国がぴとつの共同体とみなされていたことを示している。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;戦国大名の国家は保護の代償として領民に国家の構成員としての自覚をうながし、国役（課税）、城普請役などの義務を課すことになる。普請とは「あまねく請ける」こと、すなわち国民の義務を意味する。そして検地は、まさに国民の権利と義務を確定するために行われたのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　このような動向の背景として、この頃の惣村に村民の資格について、「村籍」とでもいうべき観念・慣行が育っている事実を指摘せねばならない。例えば近江の今堀郷は十五世紀末に、七歳を過ぎて村人と親子関係を結んで人村した者は宮座のメンバーとして認めないという規定を設けており、「村人たる資格は第一にその村の村人として生まれ、幼いうちから村人として育つことであるという主張が、十五世紀後半以降の近江の惣村にはみられるようになる」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;久留島典子は「このような構成員の管理＝『村籍』認定化の背景には、誰もが帰属先を持つべきであるという考え方、逆に帰属先を持たぬ人間は排除されるべきであるという考え方が、この時期の畿内近国の村々に広がってきたことがあるのではないか」と言う。だとすれは戦国大名の領民を「国民」として把握し、その権利と義務を確定してゆこうとする動きは、村落が村民の認定権をもつ動きと呼応しているわけであり、「国民」であれ「村民」であれ、帰属による有資格化は同時に構成員の管理強化だったことになるだろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;205p☆&lt;BR&gt;　しかもこの時代は、社会階層の移動が自由で激しかった。秀吉や蜂須賀小六の前身は問うまでもない。小西村長は薬種屋のせがれだった。越前北庄十八万石の領主となった堀久太郎秀政は、美濃茜部の久助という一向坊主だったと伝えられる。地侍や乎百姓が戦功によって、侍大将やひとかどの侍になりおおせた例は、枚挙にいとまないはずである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;都合の悪い領主を打倒することはあっても、領主という存在自体を打倒しなけれはならぬ衝迫は、どこを見ても出てこない。富樫政親を滅した一向一揆は、その大叔父富樫泰高を守護職に擁立し、やがて本願寺権力を実質的領主と仰いだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　領主階級そのものを廃絶して「百姓権力」を樹立するためには、全国惣村連合ともいうべき組織体とその指導部が成立していなければならない。そんなものは成立しようがなかったし、それが成立していないところで領主がいなくなれは、世の中は収拾のつかぬアナーキーに舞いもどるだけだろう。そんなことを百姓は望んではいなかった。彼らには領主―領民関係を廃絶するような発想は存在せず、ただその関係をより望ましいものにしたい願望があっただけだった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　徳川幕藩制は百姓のその願望に曲りなりにも応えたからこそ、二百六十余年の命脈を保った。それは頭から爪先きまで武装した武家権力が、武装解除された百姓・町人を威圧することによって維持された「兵営国家」なのではない。それは最近朝尾直弘がことあるごとに強調するように、武家領主階級と農民・町人とのあいだに新しく契約が交わされることによって成立した、それなりにリーズナブルな国家であり社会であるのだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　そのことは在地の現実を見れはあきらかである。地侍はことごとく武家の被官となって村を出て行ったわけではない。むしろその多くが村落に残ったのであり、そのことから、「かれらがいかに外の領主世界に引かれるところ少なく、村の成員たることに固執していたかがわかる」と池上裕子は主張する。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;兵農分離後においても、彼らは村の侍として下人・小百姓を従え、隠然たる勢力を維持していた。彼らが幕藩制村落の庄屋となってゆくのは、荘園制下における沙汰人・番頭として、村内の事情、年貢徴収の実務に通暁していたからであるとともに、そのような村内での実力によるものである。幕藩領主は年貢・夫役の徴収を村請制に頼ったが、このような村の待たちなしには村請制は、少くとも幕藩制成立期には存立不可能であった。&lt;/DIV&gt;
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』１６</title>
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      <pubDate>Sun, 01 Mar 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;『&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;日本近世の起源&lt;/SPAN&gt;―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／洋泉社MC新書&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;第八章　一向一揆の虚実&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;191p☆-弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　金龍静は「村中人々、下女以下まで、一衣をぬぎ、上げ申し侯。煙硝、鉛の代かえに成し申し侯」という当時の書状を援用し、「権力に掌握されきらない村や町の武力財力が主体的・意識的に結集しえた場合、一体どこまで戦いうるのかという、史上空前の試み」と評価する。献金で飛行機や大砲を作るなどは、戦時中の日本国民もやったことである。私など少年の日、それが武器として再生されるというので、学校のゆき帰り、眼を皿にして道路上の鉄屑を拾い集めたものだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;しかも本願寺の指令を受けた村々や寺内町を、権力にいまだ掌握されきっていないものとするのは奇怪である。もとよりそれは、本願寺領主権力によってすでに掌握されていた。実はこの書状の前段には、金龍は省いているが「玉薬御用意のため、上様を始め、御小袖を脱がせられ、そのほか御内人」という一句がちゃんとついており、しかもこの書状自体、本願寺家臣による寄進の催促状なのだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;おいたわしくも上様まで小袖を脱がれ、村の下女だってたった一枚の衣を脱いでいる。だからもっと寄進しなさい、というのがこの書状の趣旨なのである。上でもやっているから下でもやれと言っているのであって、どうしてこれが村々の主体的結集を示す文書でありえよう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;193p&lt;BR&gt;　一向衆の軍事的実力は本願寺教団の教義と密接な関わりがある。それは阿弥陀仏という絶対神以外の諸仏・諸神を拝することを認めない一神教であり、しかも往生すでに決定という予定論的構造をもつ点で、信徒に絶対的な確信を与えるものである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;一五七九年から八二年まで日本教区を巡察したイエズス会士ヴァリニャーノは、日本の仏僧が「いかに罪を犯そうとも、阿弥陀や釈迦の名を唱え、その功徳を確信さえすれば、その罪はことごとく浄められる。したがってその他の贖罪等はなんらする必要がない。それは阿弥陀や釈迦が人間のために行なった蹟罪を侮辱することになると説いている」といい、「まさしくルターの説とおなじである」と断じている。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;これは本願寺の正統的教義からすると、いささか「本願誇り」の異安心くさい説きぐちだが、当時このような教説が一向宗として広く流布していたことを示すものだろう。しかもヴァリニャーノは、真宗教義の核心が、救済はずでに定められているというルター的予定説にあることを鋭く見抜いている。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;194p&lt;BR&gt;　本願寺と信長との戦争を宗教戦争とすることはできない。信長は真宗の信仰を圧殺しようとしたことはないし、争点は信仰にはないからである。本願寺は政治と経済的利権の面で信長と対立したのである。またこれは百姓と武士の戦いとすることもできない。なぜなら本願寺の武闘を指揮する下間衆は、聖界貴族大谷家の家産的軍事官僚であり、百戦練磨の武将たる彼らを百姓とするのはもとよりノンセンスである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;村々からの番衆をひきいる旗本は国人・地侍であって、この時代はれっきとした武士である。本願寺領国が領主と家臣団から成っており、その組織によって戦ったのだということを見失わなけれは、それを百姓の集団と見まちがえるはずがない。むろん乎百姓は参戦した、ただし下間衆・旗本衆にひきいられて。一方、信長軍の構成も似たり寄ったりである。彼らの将校は国人・地侍であり、足軽・又者・中間・人足はことごとく百姓だった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　つまりは、百姓たちは信長方にもついたし、本願寺方にもついたのである。本願寺方についた百姓が信仰に燃えてそうしたのだとすれは、信長方についた百姓は新しい世の到来に希望をかけてそうしたのである。むろん兵の徴募は強制を伴なったろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;しかし一方、本願寺教団には「坊主も御門徒も御流を為損いては、今世・後世とりはずす」(『本福寺跡書』)きびしさがあった。戦さにゆくのはいやだとは、とても言えたものでない。どっこいどっこいというべきである。第一、民衆に支持されないで、信長はどうやって天下を取ったというのだ。本願寺との抗争で信長方についた地下衆は沢山いる。本願寺の領国あるいは教団の中からさえ、信長軍への同調者は続出しているのである。&lt;BR&gt;195p&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;196p☆&lt;BR&gt;　いわゆる長島の虐殺については、倫理的な悲憤を発するのも大事だろうが、事実を冷静に分析するのがそれに劣らず大事なばずだ。神田千里の『信長と石山合戦』は、叡山や長島のみな殺しに関ずる最初の、そして出色の分析といってよい。神田は次のことをあきらかにした（神田は越前征討についてもふれているが省略した）。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;第一に、長島衆は一向衆だからみな殺しにされたわけではない。近江国三宅・金森の一向一揆の場合、降服ののち赦免され、寺内町は安堵されている。また石山本願寺を囲んだ際も、信長は非戦闘員は赦免するという立札をたてさせている。第二に、長島衆は「百姓」だからみな殺しにされたのではない。信長は有力な部将である荒木村重の一族もみな殺しにしている。第三に、叡山・長島・荒木一族の事例にはみな共通点がある。信長は、叡山は出家失格、長島は門徒失格、荒木は武士失格というふうに、それぞれ一種の社会ルール違反を犯したものと認定しており、みな殺しはそれに対する懲罰である。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;第四に、これらのみな殺しには、政治的効果をねらった強いアピール性がある。当時民衆のあいだには、「領民を敵の殺戮に任せるような領主は、年貢を取る資格もない領主失格者」だとする通念があった。「戦乱の世を生きた民衆は、何よりも強い、危機管理能力の高い領主を求めた」。これが「虐殺作戦の時代的背景」であって、信長は、山門、長島願証寺、荒木村重が、佳民をミスリードして大量虐殺を招くような領主失格者であることを、民衆にアピ一ルしようとしたのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　以上が神田の分析であるが、いずれも強い説得力をもっている。ただし断わっておくが、神田はだから信長の行為は正当だなどと言っているのではない。とくに重要なのは第四点である。これがうがちすぎでないのは、過ちは繰り返しませんという、かの広島爆心地の碑文によってもあきらかだ。この文言は、広島の虐殺は軍国主義的支配者の誤った指導が招いたもので、そのような支配者にしたがう過ちは繰り返さないと言っているのだ。アメリカはまさに原爆投下によって、日本の支配者に失格の烙印を捺すことに成功したわけである。&lt;/DIV&gt;
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』１５</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/02/28/7672159</link>
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      <pubDate>Sat, 28 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2015-06-19T18:27:53+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;『&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;日本近世の起源&lt;/SPAN&gt;―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;第八章　一向一揆の虚実&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;186p☆&lt;BR&gt;　石山合戦はこのような政治・軍事権カとしての本願寺の姿勢が、全国統一をめざす信長と衝突したところから起った。神田千里のいうように、もともと信長には「本願寺教団全体を不倶戴天の敵」とみなす考えはなかった。元亀元（一五七〇）年、信長は三好三人衆と摂津で交戦中だったが、本願寺第十一世顕如（1548～92）は突如寺内の早鐘をつかせ、横合いから信長軍を攻撃した。信長は仰天したといわれる。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　すなわち信長との戦争は本願寺側の選択だった。神田はその理由として、三好三人衆が本願寺に好意的だったことと、信長がイエズス会宣教師に好意を示したことをあげている。だが、加賀領国や各地の寺内町などの政治的支配領域をもち、ちょうど中世のローマ教皇庁がそうであったように一個の現世的大領主であった本願寺は、畿内大領主団の一員として、信長の全国制覇の野望を深い危惧をもって見まもっていたはずだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;信長はけっして浄土真宗の信仰自体を禁圧するものではない。ただ彼の姿勢には、宗教を政治・軍事から分離ぜしめようとする意図がはっきりと読みとれる。天下統一の暁に彼が、現実に政治・軍事的な支配領域をもちながら、宗教の名において国家権力の介入をこばむような特殊な権力の存在を許すはずがない。本願寺はさだめしそう読んだことだろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;本願寺はすでに永禄六（一五六三）年の三河一向一揆を知っている。これは松平氏が領国内の一向宗寺院に課税しようとしたことから生じている。信長の同盟者たる家康は、真宗寺院の不輸不入の特権を認めない。信長も全国統一の過程で、かならずや本願寺の既得特権を否定するだろう。かくして本願寺は三好三人衆、六角氏、浅井氏など反信長勢カと連携し、全国の末寺・門徒に蜂起をうながすに至った。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　門徒には、信長に対して兵を挙げねばならぬ理由など何もなかった。信長は信仰の迫害者でぼなかったし、石山合戦の講和後本願寺を安堵し、門徒の信仰も認めている。信長の後継者の秀吉も同様である。神田が指摘するように、本願寺教団が全国に教線を拡大し、近世最大の教団となるのは石山合戦以後のことだ。門徒はただ、宗主が信長を法敵と認定し、「御恩報謝」のために参戦せよと指令したからこそ、勇躍して甲冑を身にまとったのである。彼らの信仰心には感動するしかないとしても、「御恩報謝」とはいったい何だろうか。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;親鸞はなるぼど、「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報すべし　師主知識の恩徳もほねをくだきても謝すべし」とうたっている。だが、自分がおまえたちに救いを与えたのだから、そのご恩返しのためにおまえたちは、自分が法敵と認定したものに対しては、武器をとって命がけで戦うのだぞ、などと親鸞は言ったのだろうか。本願寺は仏恩報謝の意味をまったく歪曲して、現世におけるみずからの領主的支配を温存するために、門徒を戦場へかりたてたのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;187p☆&lt;BR&gt;　私は本願寺がたんに現世的な領主であるのならば、領民である門徒と一体化して反信長戦をたたかったことを、とやかく言うつもりはない。それは浅井や朝倉などの戦国大名もやったことであり、いわぼ当然の行動である。信長は歴史の進歩の側に立つ新勢力だが、反信長方は旧勢カだなどという、左翼的な進歩信仰に与する気もまた私にはない。ただ、本願寺が行使するいい気な教団論理を容認するにしのびないだけだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;189p☆&lt;BR&gt;　話をもどすと、そもそも教団の側から門徒に、仏恩に報謝ぜよと命ずるのは怪しからぬ話ではなかろうか。報謝行は信徒の自発としてあるべきで、親鸞の和讃もおのれの報謝の念をのべたものであり、信徒に向って「謝すべし」と命じているのではない。しかもこの報謝は、現実には本願寺の世俗権力を守るためのものである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;領主的地位の安泰のために、宗主とその祖先の恩義に命を投げ出してむくいよというのは、宗教者としては阿漕にすぎるのではないか。教団がなくなる危機というならともかく、この喧嘩は教団のほうから売った喧嘩であり、喧嘩に敗けたあとも、教団はなくなるどころか隆盛に向っているのだ。命をかけての報謝の意味はどこにあったのか。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　意味はあった、敗れたために教団は変質し、一揆の魂を失なったというのが、これまでの通説である。しかしこの通説は、神田千里によって正面から打破されるに至った。神田は石山戦争後も、本願寺の一揆体制は解体されず、秀吉からも一目置かれていたことを、史料にもとづいて立証している。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　本願寺門徒が石山合戦で示した熱誠は後世の語り草となった。つまり門徒からみれば、これはこれで立派な信仰の戦いだったというべきである。しかし、それを門徒の報謝行として、無条件に讃美してよいものだろうか。穎鸞や蓮如が説いたような高度な意味での報謝を、大方の門徒が正しく理解していたとするのは教団のたてまえ論にすぎず、また知識の徒である教学者の傲慢にほかならない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;民衆は教団の精緻な教義などに包摂される存在ではない。彼らは浄土と地獄を実体として信じていた。宗主のために死ねば浄土へ往生できると信じたればこそ、彼らはあのように力戦敢闘したのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　教団は護法の戦いで死ねば浄土へゆけると説いたことはないという。なぜなら、真宗の教義では往生は一念発起したときに定まっており、戦いで死ねば往生できると説くのば教義に反するからだ。しかし神田千里によれば、当時門徒のあいだでは、本願寺宗主と一族が「門徒を思いのままに往生させたり、地獄におとしたり」する力をもっているとひろく信じられていた。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;そればかりではない。坊主も時と場合によって、仏敵との戦いで死ねば往生できると説いたことは、証如が天文一揆のさい出した感状に、「討死の方々は、極楽の往生をとげ候はんずる事疑いなく侯」と書いているのでもあきらかだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;190p☆&lt;BR&gt;　結局、一向一揆とぼ何だったのだろうか。それが農民の戦い、「百姓権力」などといえるものでないことはすでにあきらかだ。研究者のうちには、本願寺の方からみればそうではなかろうが、本願寺に託した民衆の願望の方に立てばそうなる、などと主張する人がいる。そんなことをいえぼ、天皇制だって民衆の権力だということになってしまう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;また、石山合戦で農民信徒が大勢討死したからそれは農民の戦いだなどという主張が通るなら、彪大な民衆が戦場に散った太平洋戦争も民衆の戦いと呼ばねばならぬ道理ではないか。民衆はいやいや戦場に駆りだされたのだ、などと言ってはならぬ。かの竹内好でさえ、開戦の日には胸が晴れるのを覚えたのだ。まして民衆においてをやである。&lt;/DIV&gt;
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』１４</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/02/27/7672157</link>
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      <pubDate>Fri, 27 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2015-06-19T18:24:18+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;『&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;日本近世の起源&lt;/SPAN&gt;―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／洋泉社MC新書&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;第八章　一向一揆の虚実&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;176p-弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　もちろん、生じつつある剰余を貴族や守護大名に収奪されることを拒否して、わが手に保留しようとするのも立派な闘争であるだろう。しかしこの時代、一般農民はけっして収奪にあえいでいたのではない。彼らば惣村の指導者たる地侍にひきいられて、荘園領主から実質的に年貢軽減をかちとっていたのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;荘園領主は年貢の減少あるいは杜絶によって深刻な打撃を受けていた。剰余は守護大名・国人・惣村の地侍によって分けどりされつつあった。加賀内乱の本質は、守護大名と国人・地侍の国一揆との得分をめぐる争いだったのだ。この時期には、本願寺門徒ばまだ惣村（郡）を制圧していなかった。彼らは国一揆の一翼として戦いに参加したのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;178p&lt;BR&gt;　第十世の宗主証如（1516～54）はなるぼど、加賀一国をおのれの「知行」とは認めなかった。だがそれは、幕府が加賀守護職と認定する本願寺に国役（臨時の賦課）をかけようとするのを拒否する遁辞にすぎない。自分は宗儀によって現世に所領を持つ身ではないから、国役の件は所領をもつものに申しつけてくれとは、なんと白々しい言い分だろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;証如時代に本願寺は加賀国内に莫大な知行所をもっていた。そればかりではない。その加賀国内での領主権は、井上鋭夫によれば次のように整理することができる。①本願寺は国内での在地検断権の上に立つ最高裁判権をもつ。②本願寺衆が国内でもつ荘園の代官職・名主職は、宗主によって安堵・没収・補任される。③本所領家（荘園領主）の依頼に応じて年貢納付を在所に命じる。④郡・組・村から年貢・志納を徴収し、未進があれば懲戒する（門徒の志納は領主権とは関係がない。しかし加賀では志納もまた年貢化した）。⑤国人を旗本に任じ、将軍家被官に擢薦して和泉守などの公名を授ける。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;このような守護権力以上の領主権を行使しながら、さらに厖大な貢租を収取・集積しながら、本願寺は領主にあらず、あくまで現世に望みをもたぬ宗教団体だというのである。まさに左手のしていることを右手は知らぬというわけだ。金沢御坊は誰が何のために設立したというのか。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;179p&lt;BR&gt;　宗主が生害（死刑）御勘気（破門）後生御免（免罪）などの手段で、教団内部の統制を強化したのは証如の時代である。だが宗主の裁判権はたんに教団内部だけではなく、加賀領国や寺内町では、一般住民に対しても行使された。藤木久志は本願寺本山の検断権を分析して、世法から自立したものではなく、「世俗の法規範に強く制約され」たものと結論づけている。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;また彼は、加賀国の仕置において本願寺が、加賀の郡権力の在地的検断権を認めた上で、在地での紛争解決が行き詰まった場合に、調停にのりだす形で上級検断権を行使したことを指摘する。すなわちそのありかたは、法的視角から見るかぎり「成立期の戦国大名権力のありかたに酷似し」ているのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;180p&lt;BR&gt;　実如の弟実悟はのちになって永正一揆をふりかえり、「そのみぎり以来、当宗御門弟の坊主衆以下、具足かけ始めたることにて侯」と語っている。むろん本願寺派の坊主は文明年間から、すでに『具足懸け』を行なっていた。しかし、宗主の指令によって坊主・門徒が戦争行為を行なうようになったのは、永正以来だと実悟は言うのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;井上鋭夫は、実如が政元援助に踏み切ったのは、北陸で「教団と守護勢カとの対抗関係が、もはやぬきさしならぬものになっていた」ためだと言う。本願寺はいまやたんなる教団ではなく、一定地域の政治経済的支配権をもち、それ自身の軍勢を有する一個の権門であった。その権門の地位を守るため、こののち宗主と本山は戦国大名とめまぐるしい連合と抗争を繰り返すことになる。それは百姓の一揆どころか、宗教一揆でさえもなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;184p&lt;BR&gt;　長享一揆は、衰退にむかう本所・領家の荘園公領支配を前提として、守護方と一向衆方（門徒・非門徒連合）のどちらが収穫を刈りとるかという闘争だった。一向衆を主導するのが、小領主たる本願寺末寺、国人、地侍であることはすでに述べた。むろん惣村の乙名である地侍のもとには多数の平百姓が従っていた。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;「あの急峻な城山をよじのぽり、乱杭・逆茂木を焼き払いつつ、富樫政親一党を滅した勇敢な門徒」と井上が讃美する一揆勢（門徒でないものも大勢いたはずだが）のうちに、平百姓が多く含まれていたことは想像にかたくない。しかし、彼らがいかに彼ら自身の願望によって行動したにせよ、現実には小領主たる末寺、れっきとした武士身分である国人、やがてのちには近世の領主・給人になり上がる地侍の指導と統制のもとにあるかぎり、この闘争を彼ら農民の闘争と規定するのはしょせん無理な話だろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　攻め滅ぼされた政親は，誇張はあろうけれど一万余人の兵を集めたといわれる。むろんその少なからぬ部分は百姓や下人だったのである。一揆方の平百姓は自発的に参戦したが、富樫方のそれば強制徴募されたのだなどと、見てきたようなことを言ってはなるまい。この時代の農民は様ざまのかたちと次元で領主と結ばれている。兵農はまだ分離されていない。利害や慣習や情誼にからめられて、守護方につく農民はあって当然なのだ。富樫氏はもともと北加賀富樫庄を本貫とする豪族で、根は現地におりていたのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　かくて出現した本願寺領国支配は重要な点で、戦国大名の領国支配に通底する性格を持ち、とうてい農民権力などと呼ぶことはできない。本願寺教団自身が本山―本寺―末寺―門徒の階層構造をもち、重層的な主従関係を内包していたことは、宗主と寺院間の安堵―奉公という関係、宗主に対する「殿様」「上様」といった呼称からして明白である。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;もちろん門徒は宗主と主従関係をもつものではない。しかしそれは大名が領民と主従関係にないことと同様である。真宗は同朋教団といわれるが、「知識は『同行』を私財化し、門末は知識を崇めて弥陀如来に擬するようになる。それが本願寺宗主権のもとで認証され、宗主を絶対的な『知識』とする支配関係が成立するとき、本願寺教団として組織されるのである」。&lt;/DIV&gt;
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』１３</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/02/26/7672156</link>
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      <pubDate>Thu, 26 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2015-06-19T18:20:13+09:00</dcterms:modified>
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      <description>『&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;日本近世の起源&lt;/SPAN&gt;―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;第八章　一向一揆の虚実&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;169p☆&lt;BR&gt;　親鸞(1173～1262)というのはむずかしい人である。その言辞は逆説にみち、容易に教条化を許さない。ただその核心が、人間という存在の救いのなさの、常人の次元を超えた徹底的な覚知にあったことは疑いようがない。人聞は貧苦や病苦、老いや死を免れないから救われないなどと、説教坊主のようなことを彼は言わない。ただしずかに、われわれ人聞はどんなに努力精進しても自力では救われぬと眩くだけである。たとえ貧苦や病苦、老いと死から免れていようとも、人間に救いはないのだ。その凝視は揺らぐことがなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　だがら競鸞はまず何よりも、宗教の説く救済を否定してかわりに絶望を説いたのである。ただ、そこから彼は反転した。それが彼の宗教者たるゆえんであって、救いなき身であればこそ救いはすでに現前しているという、特異な救済の自覚がそこに成り立つ。この人の世が、さまざまな修行や善行によって救いをうることができる構造になっているのなら、人間にはもともと救いは要らないのだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;救いのないという事実が絶対であればこそ、救済の存在もまた絶対的なのである。絶望のないところに救済の要請があるはずはない。救われぬからこそ救われねばならぬのである。他カとはこのこと以外を意味しない。おのれの計らいをこえた救いをもたらしてくれるのは、いうまでもなく阿弥陀仏の悲願である。都合のいいときに阿弥陀仏が待ち構えてくれていたものだなどと、つまらぬ皮丙は言うまい。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;親鸞のいう阿弥陀仏とは、大乗仏典に源を発するたんなる教説(ドグマ)ではなかったからである。阿弥陀仏はすべての衆生を光明のうちに摂受すると誓ったありがたい仏なのだから、その誓願が存在ずる以上、汝ら衆生の往生はすでに決定(けつじょう)しているというだけのことなら、それを教学的に説けぼ一個の中世的ドグマにすぎず、それを盲目的に信じこめは一個の迷信にすぎない。親鸞にとって阿弥陀仏とは教説でもなけれは観念でもなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;170p☆&lt;BR&gt;　私は親鸞の前に、阿弥陀仏はかならずや、山河の姿をとって現われただろうと信じる。また、人間の生きる姿の悲しさとして現われただろうと信じる。親鸞にとって阿弥陀仏とは、人間も含めたこの世界という存在が語りかけてくる声ならぬ声にほかならなかった。つまり彼は絶対的救済者の現前を、たしかにひとつの肉感として覚知したのである。しかも、おのれの思惟や行為をこえた、まったく向うのほうからやってくる他力としてそれを感受したのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　親鸞は人間を含むこの世界の構造を、救いなき悪と覚知したのではなかったか。彼の悪の自覚は、説教坊主が説くように、わが身の悪をよく認識・反省し、そういう悪人たるわが身が生かされている不思議を思いみて、感謝の心をもちなさいといった、そんな程度の悪の認識なのではなかった。反省してどうにかなるような悪なら、そもそも救済は必要とせぬ。親鸞は現実世界内の倫理を説いたのではない。彼が必死に尋ねたのは、世俗世界を超えた次元での救済だった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　宗教はこの世での人間の身の処しかたを説くものではない。むろんそれが世俗社会のひとつの構成要素として在る以上、宗教は独自の倫理体系を発達させることになる。しかしそれは宗教の本義ではない。親鸞はあくまで宗教者だった。宗教事業者、つまり宗教の宣布者・組織者だったのではない。宗教者というのは神を感受する人である。そして親鸞の場合神は、救いなき身という虚無の徹底的な覚知があって初めて出現した。そういう特異な神であった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;それは彼が、救済が先験的に拒絶されている世界の構造を覚知しながら、それゆえにこそ同時に、すでに救済されているもうひとつの世界の相を覚知したことを意味する。このあたりはまさに言語を超えた世界であって、それが、山河あるいは人間の生きる姿の悲しさとして現れただろうというのは、ただ私のひそかな思念にすぎない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;171p☆&lt;BR&gt;　彼がおのれの見た絶対的救済者を阿弥陀仏に求めたのは、生涯法然（1133～1212）を師としてあがめた彼の仏僧としてのありかたに起因する。しかし、彼はひとつの教説を宣布しようとしたのではない。ただ、救済はすでになされているという覚知を人とともにし、そのことへの感謝のくらしを人とともに日々生きたかったのである。だから彼に弟子はなく、ただ同行の衆あるのみだった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;173p&lt;BR&gt;　蓮如（1415～99）はこのような教団の嗣子として生れ、八世の宗主となったのである。彼が生まれたころ、本願寺は高田専修寺派、渋谷仏光寺派などの浄土真宗各派にくらべてはなはだ振わず、参詣の人もまれだったといわれる。しかし、「蓮如以前の本願寺の衰微・暗黒時代を想定」するのは誤りだと井上鋭夫は言う。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;覚如の時代にも、また蓮如の父存如の時代にも、本願寺には衆僧のほかに坊官・家臣が住みこみ、その数は数十名に達していた。教線も歴代の宗主の努力によって、越中瑞泉寺、加賀本泉寺、越前超勝寺など、着々と北陸へ伸びていたのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　蓮如について多くを語る必要はあるまい。彼はたしかにすぐれた宗教者であったろうが、同時に宗教事業者たるべき星のもとに生れ、そのようなものとして比類ない力量を発揮したことを確認しておけばよい。彼の説いた教義は、阿弥陀仏の摂受によって往生は決定しており、一刻もはやくそのことに気づいて、ひたすら阿弥陀仏をたのむ心を起すことこそ安心決定であるとするもので、覚如によって確立された本願寺教団の教説を出るものではない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;ただその卓越した文才と横溢する人間味にあわぜて、山に猟をするもの、海に漁るもの、弓矢をとって武士に奉公するもの、鋤鍬をさげて大地を耕すもの、つまりあらゆる「われらごときいたずらもの」が、男女ともに南無と帰命するだけで救われると説く点において、彼の言説はすぐれて衝迫である。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;175p&lt;BR&gt;　文明五年、蓮如が門徒衆の一揆にゴーサインを出したのは、それを護法の一揆と位置づけたからである。蓮如は仏法に対する王法・世法の干渉をおそれた。そのため坊主・門徒に自制を説くとともに、つねに有力な外護者を求めた。この時点で彼は富樫政親を外護者に見立てていた。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;「こうして専修寺派を圧倒しつつ本願寺の拡大をはかってきた蓮如は、その加賀における有力な保護者を富樫政親に見出したのであり、ここに本国を追われた薄命の武人と野心満々たる乱世の宗教家とは、幸千代打倒の一点において利害の一致を見たものとしなければならない」と井上が言うのは、よくことの一面を衝いている。
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』１２</title>
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      <pubDate>Wed, 25 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2015-06-19T17:24:52+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ&lt;/SPAN&gt;』渡辺京二／洋泉社MC新書&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643" target="_blank"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;&lt;BR&gt;第七章　侍に成り上がる百姓&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;148p-弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　朝尾が「小領主層」というのは、戦国期の村落において、村落の自治組織たる惣の指導者として頭角をあらわす地侍のことである。侍といっても、それはあくまでも村落内での身分にとどまり、当時の社会的身分編成からいえば凡下、すなわち百姓の一員にすぎない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;また一方、彼が「幕藩領主」というのは、幕藩制における将軍・大名だけではなく、彼らの家臣として知行を給せられたいわゆる給人をも指している。つまり朝尾は、徳川期の武士階級は大名から家臣にいたるまで、基本的には戦国期村落の上層農民が成り上ったものだと言っているのだ。これは衝撃的な発言ではなかろうか。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　その成り上った彼らが今度は、「かつての自己を生み出した階層・基盤を否定し」たというのは、検地、刀狩り、身分制法令等を通じて、農民の被支配者的地位を確定・強化し、農民上層部のこれ以上の成り上りを禁圧したことを言うのである。つまり自分自身が百姓の出身であり、百姓の自己解放・社会的上昇願望の担い手であったのに、支配者の地位についた途端、自分の出身母胎である百姓の解放と上昇を否定したのであるから、「自己否定」というわけなのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;154p☆&lt;BR&gt;　村の侍衆が戦国大名の被官となっていったのは、「かれらが加地子等の得分の集積者であり、その取得を保障する体制を必要とした」からである。一方、戦国大名の方にも彼らを家臣団にとりこむ痛切な必要があった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;勝俣鎮夫は言う。「彼らは荘園公領制下の名主の系譜をひく地主で、郷村の指導者であり、領主の支配を下からきりくずしていたのであり、彼らこそ戦国時代の転換、戦国の争乱をもたらした主体的階層であった。戦国大名の軍事力は彼らをいかに多く組織するかにかかっていたのであり、また国の支配の成否は彼らをとおしていかに郷村を把握していくかにかかっていたのである」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　つまり十六世紀という時代は、惣村内で侍衆という階層に結集した有力農民が、戦国大名の家臣団に組みこまれ、さらには織豊家臣団・幕藩制家臣団の中核をなして行く一世紀だったのだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;『三河物語』には、松平家八代当主、家康には父に当る広忠が鷹狩の途中、御前衆にも連なるようなれっきとした家臣の、折から田植最中の光景を見かける有名な挿話がある。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;その時くだんの侍は「破れかたびらを着、高端折に端折りて、玉襷をあげて、我も早苗を背負いて、目づらまで土にして行く」有様だった。家臣はこのような姿を主人に見られたのを差じ、広忠は家臣にこのような苦労をさせる自分を責めたというのだが、これこそ後年天下をとるにいたる徳川家の家臣団が、このように自ら農業をいとなむ村の侍衆だったことの動かぬ証拠というべきだろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;159p☆&lt;BR&gt;つまり織豊期の軍隊は、彪大な数の雑兵をその必須の梶成要素とするに至っていた。雑兵は足軽、武士の奉公人、陣夫の三つに大別される。その供給源が村落だったのはいうまでもない。惣村の地侍層が領国大名の給人となり、騎乗の武士と化したとすれば、おなじ惣村の平百姓はあるいは足軽となり、あるいは給人に仕える又者すなわち奉公人となって村を出たのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;高木は、地侍層が大名の被官として出陣するとき、その家父長制的農業経営に隷属していた下人・所従が、彼らの又者として従う場合が多かったものと想定している。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　まさに十六世紀は「渡奉公人の花時」だった。たとえ雑兵として大名軍団に組みいれられたとしても、戦場の功名によって一人前の武士となる例にはこと欠かなかった。太閤秀吉は尾張国中村の貧乏名主のせがれだった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;その秀吉の軍団について、東北の大名南部信直は、文禄二（一五九三）年、名護屋に参陣したときの見聞として、「上(上方すなわち秀吉軍団をさす)にては小者をも、主に奉公よくなし候へば、則ちひきあげ侍にせられ候。それを見し者共、我おとらじと奉公仕り候て、それをさせるべきからくりに候」と述べている。すなわち秀吉の軍隊は、朝尾直弘の表現に従えば「下剋上を組織した軍隊」なのであった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;160p☆&lt;BR&gt;　徳川幕藩制社会は秀吉の遺業のうえに成り立っている。その秀吉が尾張の平百姓の出で、草履取りという雑兵として閲歴の一歩を踏み出したことの意味は重大であるはずだ。宣教師カブラルが「百姓でも内心王たらんと思わないようなものは一人もおらず、機会次第そうなろうとする」と言うのは、むろん誇張の言たるをまぬかれないが、当時の民心の一斑を察するに足る。この書簡が書かれたのは一五九六年であるから、彼の念頭にはむろん秀吉の例があっただろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;もちろん・秀吉を好例とするように百姓が武将に成り上ったとしても、彼をその一員として迎えいれた武士団は土地領主としての長い伝統をもっている。朝尾直弘がかつて強調したように、百姓の「身分変更闘争」としての武士化は、彼自身が伝統的武士団のイデオロギーに同化することでもある。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;しかし、この場合肝心なのは、織豊武士団と伝統的武士団との異質さであるだろう。頼朝や尊氏は源氏の棟梁であるからこそ、武士たちから主人と仰がれた。ところが織豊武士団は、尾張の一平民百姓であったものをおのれの棟梁に戴くことに、何の違和も疑問も感じなかったのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　つまり織豊武士団はそれほど百姓的要素に浸透されていた。織豊期の軍隊は百姓を組織した軍隊だった。たんに雑兵が百姓だったというだけではない。将校クラスの武士から、軍団の長たる大名にいたるまで、百姓から成り上った者は珍らしくとも何ともなかったのだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;惣村は中世後期にいたって、数々のきびしい軍事的経験を積んできた。その期間は優に二百年にわたっている。勝俣の言うように、惣村の武力を把握できるかどうかは、すでに戦国大名時代から興亡の鍵をにぎる重大事だったのである。惣村の出自だからといってその地位を差別し、能力を発揮させないような軍隊が、全国争覇戦を勝ち抜けるはずがない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;雑兵から武士、武士から武将への道は閉されていなかった。その階梯をかけのぼるのは当人の器量と実力のしからしむるところで、たとえ反感や嫉妬にまといつかれることはあっても、そのこと自体はまさに賞讃に値したのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;164p☆&lt;BR&gt;　三浦周行が南山城国一揆に一種の「国民議会」的性質を認め、その可能性を高く評価したのは不当とはいえない。だが、それを民衆一般と武士階級一般との対立と見なしたのは、とうてい当を得たものではなかった。国人層はあきらかに武上階級であるし、「土民」とされる惣村の成員のあいだにも、前述のように地侍層が成立していた。しかも彼らの背後には管領細川政元がいたのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　戦国末期に伊賀を中心として成立した惣国一揆について、久留島典子は「この惣国一揆と織田政権の戦いを、一揆的に結合する百姓と、主従関係を再編強化することによって成立した領主勢力との最終的戦いと評価することは可能なのだろうか」と問うている。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;伊賀惣国一揆でもっとも一般的なのは「土地に付いて自らの零細な得分権を保持しようと結合する、土豪・地侍と呼ばれる者たち」すなわち小領主層の一揆であったことを確認した上で、久留島は「支配者が目の前に見える支配ほど、それは過酷な様相を帯びたのではないかという疑いを禁じえない。その意味では惣国一揆を過大に評価することについては慎重でなければならない」と述べている。惣国一揆が領主支配に対する農民の闘いなどではありえないことを歴史学研究者自身が認めた発言といってよかろう。&lt;/DIV&gt;
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』１１</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/02/24/7672103</link>
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      <pubDate>Tue, 24 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;『&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ&lt;/SPAN&gt;』渡辺京二／弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;第六章　中世の自由とは何か&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;138p☆&lt;BR&gt;　十六世紀の百姓が主従制を個別的人身支配として忌避したなどという左翼史学の主張が、自由・解放・人権といった近代的観念を過去に投影しただけの歪んだステレオタイプにすぎないことはもはや明らかだろう。個別人身支配とか隷属という概念には近代的世界観が強度に浸透している。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;当の十六世紀人はこんな言葉を聞いても理解することさえできなかっただろう。本福寺の坊主は武家の被官になるのはいやだというが、そういう彼はれっきとした本願寺宗主の被官だったのである。主従関係一般を個別人身支配として忌避するような心性は当時の人間にはなかった。「かつての主従論争が展望をのこさぬままに終ってしまった原因の一つは、その対象を武士に限定し、或は少くともその典型を武士のみに求め、他はせいぜいその投影にすぎないとアプリオリに前提してしまったことにある」と笠松は言う。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;十六世紀後半の日本の社会状況を、百姓を主従制のもとに隷属させようとする武家集団と、その腕から逃れようとする百姓の闘争として描き出すのは、社会全体に構造化して埋めこまれていた主従的組織原理を全く無視したフィクションといわねばなるまい。そのような組織原理とそれを受容する心性は、明治維新に始まる社会的文化的な変動過程がそれを非人間的非理性的なものとして廃絶するまで持続したのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　十六世紀は主従制の原理に生き生きとした生命が吹きこまれた時代なのかも知れない。下剋上の時代は主従制を否定したのではなく、形骸化した主従関係が、ひとの生き甲斐たる実質をそなえた新しい主従関係に組みかえられていった時代である。この時代の人びとにとって、仕え甲斐のある主（あるじ）をもつことがまさに当人の生き甲斐であった。専制的な支配―隷従はこの時代にはもはや通用しなかった。主は選びとるものだったのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;140p☆&lt;BR&gt;　もちろん、この時代の戦国大名が家臣団に対する専制を強化して行ったのは定説である。十五世紀に定着した有力従者たちによる衆議尊重という既成事実に対して、野心的な戦国大名がおのれの指導性を発揮するためには、重臣層の「中央の儀」的な行動様式を破砕する独裁の意志が突出する必要があった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;そういう革新的な独裁者たる信長は家臣に対して、信長一人の言うことに従えば間違いはないのだという、きわめて専制的な態度をとったといわれる。だがおなじようなことは、本願寺も門徒に対して言っている。すなわち、私の分別をせず上に言上せよ、「下として上儀を計らい候たぐい」は破門すると。むしろ信長はおれに任せなさい、おれは仕え甲斐のある主だよと言っているわけだろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;なるほど信長は、家臣団の意志が主人を掣肘するという当時の主従制の構造を打ち破ろうとした。でなければ天下統一の事業が不可能だったからである。しかしまた一方、家臣は自分が仕え甲斐のある主人だからこそ従うのだということを、彼はよく承知していた。イエズス会の宣教師は、日本人は自分を侮辱した主人にいつか復讐すると言っている。光秀に襲われたとき、信長には自ら納得する思いがあったはずだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;145p☆&lt;BR&gt;そういう屈折を通してさえ表現されるものは、日本の主従制を貫徹する相互的誠実という暗黙の合意だった。暗黙の合意など情緒的で低級であり、契約であればこそ理性的で高級だなどというのは、人間のことも世の中のこともわからずに、頭脳に詰めこんだ出来合いの「近代的」視念で物事を裁断するある種の「研究者」だけが信じている妄念といわねばならない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;『三河物語』で語られているのは、わが主人・わが従者という相互の強烈な愛着である。その愛情がまた強烈な近親憎悪的相剋をも生みだすことは、近世当初の大名家においてしばしば見られた大名と重臣との対決の事例が示すとおりだ。家臣からすれば大名はともに戦って天下を取った朋友であり、わが殿という主人への敬愛は、とりもなおさずおれの主人という強烈な私有意識でもあった。このような藩主に対する所有意識は、徳川期の大名・家臣関係においてさえ濃厚に認められる。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　新しい実質を得て生れかわった主従制の原理は、武家だけでなくあらゆる社会階層において働いていた。徳川期はとくに主従制の原理が社会組織の生きた力として、社会の隅々にまで作用した時代である。主従制といえばすぐ隷属とか人身支配とか言いたがる近代的価値規を括弧に人れて、それが生きて働く力でありえた理由と実態を虚心に再考すべき刻がとっくに来ているのを、いま改めて強調する必要があるだろうか。&lt;/DIV&gt;
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』１０</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/02/23/7672102</link>
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      <pubDate>Mon, 23 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2015-06-19T16:58:08+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;『&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ&lt;/SPAN&gt;』渡辺京二／洋泉社MC新書&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643" target="_blank"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;第六章　中世の自由とは何か&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;122p☆-弓立社&lt;BR&gt;中世農奴の性質については、西洋史学界でも自由人没落説と奴隷向上説の対立はあるものの、「原始・太古の人民の本源的な『自由』」なるものを何の疑念もなく前提できるような暢気な状況にはない。第一、原始・太古に「人民」がいたはずがないではないか。文化人類学の所見を尋ねても、原始人の自由なるものを学問的概念として措定するような段階はとっくに過ぎ去っている。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　要するに歴史上の「無縁」なる現象は、「人民」の自由度の歴史的変遷として通時的に意味づけるよりも、人類の文化に内在する二極構造の一極として共時的に読み解くのがはるかにふさわしい現象であろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;俗・現世・日常・秩序・所有の極に対応するものとして、聖・彼岸・非日常・無秩序・無所有の極がいかなる時代いかなる地域にも潜在し、状況に応じて露呈し噴出する。しかし前者なくして後者は存在しえず、この両者の緊張をはらんだ均衡もしくは交替のうちに、人間社会の軌跡は描かれるのであって、有縁／無縁の対立も人類史を通じてつねに出現し作用する構造的二極なのであった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;125p☆&lt;BR&gt;オットー・ブルンナー「すべての農民的自由はある保護領主の保護支配権のもとにおける制限された自由」なのである。この点を更にＫ・ボーズルに聞くならば、「社会の「下層」に「自由」が存在する場合には、それは国王(場合によっては有力貴族及び教会)によって与えられた『職務』ないし『課題』を根拠として作り出されたものであり、国王との間に直接的に結ばれた保護・奉仕関係として、それ自体が人身的な支配・隷属の一形態なのである」。すなわちそれは「非自由な自由」＝「自由な非自由」にほかならなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;126p☆&lt;BR&gt;　自由とはまたおのれの属する集団の特権を死守することである。ヨハン・ホイジンガ（1872～1945）に従えば、日本の近代史学が憧れてやまなかった「中世的な都市の自由」とは「最も狭い範囲に属する社会集団の利益のために他のすべてを犠牲にする自由」だった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;フェルナン・ブローデル(1902～1985)は中世において自由という言葉は複数形で用いられることが多いと指摘した上で、次のように言う。「『自由』という語は、このように複数形におかれると、『特権』とほとんど異なるところがなくなる。自由とは、特権【フランシーズ】（都市や団体や個人に賦与された特権）の謂であり、人間集団や利益集団はそれに守られ、その保護を笠に着て他の集団を攻撃した。それも多くは恥ずかしげもなくであった。」&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　以上諸家の言述を紹介したのは、むろん西洋中世の話である。しかしへルマン・ハインペル(1901～88)の言うように近代は「古い自由の解体と共に始まる」のであれば、近代が生みだした自由を、それが解体した古き自由に投影することによって生ずるあらゆる言述は一切が無効であるほかはなく、その事情はわが国の場合においても変ることはない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;江戸人にとっての自由が、現代人たる今日の歴史家の頭に宿る自由の観念といかに距たり異質であるか、そのことに思いを致すならば、ましてや日本中世の人々にとっての自由を、今日の人民闘争的「自由」観の脈絡で論ずるなど、およそ歴史家の所業とも思われない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　わが国中世の自由がわれわれの前提する近代的自由などとはいかに異質で、一筋縄ではいかぬしろものであるか、「身の暇【いとま】」という言葉に関する笠松宏至の卓抜な考裂を見ても明らかである。笠松によればこの言葉は、「供奉の御家人ら多く身の暇を賜って帰国す」とあるように、「肉体の物理的拘束からの解放」ばかりではなく、「もっと広い意味でよりメンタルな自由、安穏」を意味した。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;ところが同じ言葉が将軍から家臣が死を賜わること、すなわち諌殺を意味する場合があったのである。この場合まさに「身の暇」とほ「託身保護関係の消滅であり、事実上の死の宣告であった」。笠松はこの両義性を中世における自由が現代的感覚からみれば、逆に不自由の表現である場合があることの一例とする。日本中世にあっても、自由は西洋中世同様イクォール保護・拘束を意味した。鎌倉御家人は将軍の保護のもとにあり、それは出仕の義務という拘束とセットであった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;「身の暇」が一時的に拘束を解くことである場合、それは近代的な意味での自由に近づくが、永遠に自由にしてやると言われれば、それは死ねということで、自由即保護喪失という機微は、かのフォーゲルフライの場合と何ら変ることはなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;133p&lt;BR&gt;池上裕子は百姓の「被官化あるいは侍身分の形成は、一五～六世紀の村々にわきおこった・全国規模の運動、あるいは事象ではなかったか」と言い、「大名家臣への被官化も含めて、一郷村でおよそ一〇人前後、ときにはそれ以上の村民が侍身分への積極的転身をはかった」と推定している。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;網野や朝尾に代表される、主従制イクォール私的隷属とする従来の左翼史学のドグマでは、このような史的事実は全く理解不可能となろう。また徳川期の民衆が熱狂的に支持した歌舞伎の主要な主題のひとつが、主従のきずなをめぐっての信愛と情緒だった事実も、おなじく説明に窮する仕儀になるだろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;136p☆&lt;BR&gt;ただ私は、主従関係が前近代にとって生の充溢をもたらす感情的源泉でありえたし、主人に対する奉仕が隷従とほど遠く、かえっておのれの尊厳と内面的自信を保証さえする場合があった事実を、いり組んだ学説史の詳細とは無関係に主張したいのにすぎない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　というのは、明治維新前後に来日した西洋人は日本の主従関係がいちじるしく親密であり、従者は主人に対してほとんど保護者的感情をもって、主人にもっともよいと思われる処置をおのれの専断で計らうことにおどろきの目を見張ったのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;私はこれが維新前後のみの現象とは思わないし、またヴィクトリア朝英国における主従関係がどうであったかは別として、とくに日本に限った話とも考えない。かのカズオ・イシグロの偉大な小説‘The Remains of the Day’の語る通り、二十世紀の英国でさえ、主人に対する奉仕と献身は従者の個としての尊厳の源泉でありえた。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;そもそももっとも隷属的な主従関係であるはずの奴隷制においても、子守女、家庭教師等の仕事についた奴隷は自分が育て教育した子どもの深い尊敬と愛着をかちえ、両者のかたい結びつきは生涯にわたったのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　十六世紀という乱世において主従制が獲得した新しい意義について考える前に、室町期における主従制に関してふたつのことに注意しておきたい。ひとつは十五世紀に、家督決定における親権優先が否定され、親族一門、家老・宿老層の衆議による慣行が成立したことである。今谷明によれば「かかる親族家臣団の衆議重視は、笠谷和比古が&amp;quot;主君押込（おしこめ）の構造&amp;quot;で指摘した近世大名家の内紛収拾過程にも見られるところであり、室町・江戸社会を通底する慣行であった」。&lt;BR&gt;137p&lt;/DIV&gt;
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』９</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/02/22/7672051</link>
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      <pubDate>Sun, 22 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;『&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和&lt;/SPAN&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;&lt;/SPAN&gt;(パックス・トクガワーナ)へ&lt;/SPAN&gt;』渡辺京二／弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;第四章　山論・水論の界域&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;085p☆&lt;BR&gt;　つまり村落は愛国主義の初発の温床だったのだ。石井進は中世惣村の「共同体的性格の強固さ」を、「いわば『村のためには死んでくれ』ということのできる団体」というふうに表現している。この初発の愛国主義(パトリオテイズム)は、やがて近代国家によって組織されるとき、「お国のためには死んでくれ」という民族主義(ナショナリズム)に転化し、同時に排外主義(エスノセントリズム)に帰結するだろう。だが、それはまだ先の話だ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;「村のためには死んでくれ」と成員に強制できる惣村の愛郷主義は、合戦の場合ばかりでなく、領主権力に人質や各人を差出す場合にも貫徹した。元亀元（一五七〇）年、近江神崎郡伊庭の「惣中」は信長に差出していた人質三名のうち一人が重病に陥ったため、代りの人質を出さねばならぬことになったが、誰一人申し出る者もなく困り果てているところ、助石衛門尉という男ひとりが志願した。惣中は助右衛門尉の「惣中へ別けての忠節」に対し万雑公事の永代免除をもって酬い、「この助右衛門の家に対する村のかかり物一切の免除は明治に至るまで続き、村ではこれにだれも故障をいわなかった」という。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;086p&lt;BR&gt;　このように村の犠牲となって命を棄てねばならぬ場合のひとつにいわゆる解死人（下手人）がある。勝俣鎮夫によれば、これは「喧嘩などにより人が殺された場合、被害者の所属する集団は、加害者の属する集団に下手人の引渡しを要求し、この下手人の差出によって和解するという慣習」であるが、この場合差出される人間は実際の犯人でなく、その犯人の属する集団の成員なら誰でもよかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;解死人には童・女性・老人が立つ場合が多く、その場合処刑されることはなかったというが、注目すべきなのは村内に居住する乞食が立てられ、その場合村の身代りとして死ぬかわりに子孫を村の正式の成員として遇するという褒賞が与えられていることである。乞食は領主に差出す各人の代りにもされた。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;摂州鳴尾村と瓦林村の出人りで八十三名の処刑者を出した事件でも、それぞれの村を代表して処刑されたのは庄屋自身ではなく、村に養われた乞食が身代りとして差し出されたのである。その乞食の一人仁兵衛は身代りになる代償として、子孫を村の年老に列してほしいと要求し、惣中から証文を得たという。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;藤木久志は言う。「中世の村はイザという時の身代りに備え、村の「犠牲の子羊(スケープ・ゴート)」を、ふだんから村で養っていた様子である。その多くは、名字もなく、ふだんは村の集まりにも入れない、乞食などの身分の低い人々や、牢人と呼ばれた流れ者たちであったらしい」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;087p&lt;BR&gt;　戦後左翼史学が「自立」した中世惣村として賞めそやして来たものの実体は、自分のテリトリーを主張しつつ他村と激烈な武闘に及ぶような武装した主権団体であった。藤木久志はそのような「自力」の遂行が要求する物質的負担、合戦や訴訟に要する過重な費用による惣財政の窮迫を指摘し、「あいつぐ戦火による死傷・焼亡の惨禍をもあわせて、惣規制下の村落諸階層が自ら負わねばならなかった共同の被害の深刻さは、計り知れないものがあったことになろう」と述べている。それは実に「中世の土着の世界を支配する自力の法のもたらす惨禍」なのであった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　豊臣政権は小国家まがいの存在となった村落の交戦権を否定した。統一政権として当然のことである。第一、村落自体が自己の支配領域においては、成員の個別的な武力による自己救済権を村法の名において、若衆という軍事力を背景に否定したのではなかったか。小国家である村落は、外部に対しては交戦権を主張しながら（用水利用を自己決定するというのはすなわち他村落に対して交戦権をもつということである）、村落内では成員に平和を強制した。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;豊臣政権も自己の支配領域について、同一のことを行なったのである。これは、統一権力の具現者が武家であり、交戦権を否定された村落の成員が百姓であるという、身分的支配の問題とは次元の異なる問題である。なぜなら、たとえ「百姓の持ちたる国」が出現したとしても、その「国」は自己の支配領域においては、個別村落の交戦権を結局は否定しなければならなかっただろうから。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;088p&lt;BR&gt;　野々瀬論文が提起した豊臣政権の水論への対応の間題をうけとめて、これに対する画期的な展望をきり開いたのは藤木久志だった。彼は、天正二十年の摂津の水論への処断に先行して、天正十五（一五八七）年以来、河内、播磨、近江における水論・山論にともなう武闘に対し、豊臣政権が死刑あるいは重労働刑をもって対応している例をあげ、その判決の文言から、天正十五年以前に豊臣政権によって「喧嘩停止令」なる法令が発布されたものと推定した。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;彼によればこの法令は「村落間の山野水論における農民の武器行使と合力を固有の規制対象として立法され」たもので、だとすると天正二十年の「八十三」人の刑死者は、この法令に対する違反者として処分されたことになる。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　しかもこの喧嘩停止令は、天正十四年に発令された「惣無事令」とセットをなすものだった。惣無事令とは、関東奥羽の大名に対して相互間の私戦を禁じ、紛争の裁定を秀吉にゆだねるよう命じたものである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;この秀吉の直書の年代を藤木は天正十五年とみなしたので、彼の叙述では、九州に対して出された停戦令への違反者として島津を討伐した直後に、この「惣無事令」が発令されたことになっているが、その後この直書の年代は立花京子によって天正十四年と比定されるにいたっており、だとすれば、九州征伐もそののちの北条征伐と同様惣無事令の適用ということになる。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;090p☆&lt;BR&gt;　藤木久志は豊臣政権が発令した「惣無事令」「喧嘩停止令」「刀狩令」「海賊停止令」を総称して「豊臣平和令」と呼ぶ。まさにこの平和令によって、戦乱の世、いいかえれば分立する諸団体の自力救済の世界は終結を迎えた。ロドリーゲスのいう日本史の第二期は終ったのである。徳川の平和の序曲として、まず豊臣の平和があった。豊臣平和令が「中世土着の過酷な自力の法の支配から農民を解放する役割をになった」という藤木の評価は、まずは揺がぬところとみるべきだろう。&lt;/DIV&gt;
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』８</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/02/21/7672050</link>
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      <pubDate>Sat, 21 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2015-06-19T13:57:05+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／洋泉社MC新書&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643" target="_blank"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;第四章　山論・水論の界域&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;078p-弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　中世社会の特徴は各種各級の裁判権が並立していたところにある。幕府、公家、荘園領主がそれぞれ独自な立法を行なっただけではない。守護・地頭はもちろん、惣村までが死刑をも含む裁判権を保有していたのである。しかも中世人にとって訴訟は紛争解決の一手段にすぎず、法廷の外に開けているのは広大な自力救済の世界だった。普遍的な法が存在せず、仮に存在したところでそれを執行実現する統一権力の欠如している世界では、権利は武力を含む実力で主張・防衛せざるをえなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　権利はたんに個人のものであったのではない。個人はあくまでも集団のなかの個人としてあった。これを個人が集団に埋没していたといっては不正確になる。個人を権利と義務の主体という側面でとらえるなら、個人の個たるゆえんは集団においてこそ保証され、集団を離れては人は個であることができなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;なんらかの非行によって集団を追放された者は、この世界に属さないものとして平和を喪い、異形のものとして彷徨するしかない。人が集団に属するというのはそういう重味をもつ事実だった。集団は個の生きる場である。だとすれば、おのれの属する集団が自力でその権利を防衛しようとするとき、人はそこに自己の生命を賭けざるをえない。自力救済の主体はあくまで集団だった。山論・水論の特異な世界はそこにひらけた。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;079p&lt;BR&gt;　琵琶湖北端に位置する菅浦と大浦は十四世紀からきびしい抗争を繰返してきたが、文安二（一四四五）年の入会山をめぐる紛争では、双方とも近郷の村々に合力を求め、相手の集落に押し寄せて「散々ニ合戦」に及んでいる。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;たとえば七月十日の大浦攻めで菅浦方は十五名の戦死者を出したが、合戦のたびごとに被害はたんに「刃傷」にとどまらず、放火、刈田、田畠ふみあらしなど、まさに領主間戦争に用いられる常套手段が、はばかりなく行使されたのだった。戦闘も鎌や竹槍を持ち出したわけではない。「矢いくさ」とあるように、武士顔負けの本格的な合戦だったのである。この抗争によって両村は荒廃疲弊の極に達したといわれる。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　時代は下って天正六（一五七八）年に始まる紀伊国荒川庄と田中庄間の「山公事」を見よう。このときの合戦では荒川方は橋口甚太郎を大将として二千五百、対する田申方は二千八百で、団九郎というつわものが甚太郎の首をとり、田中方優勢のうちに暮に及んで双方兵を引いた。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;翌日、荒川方は稲葉左内を大将として雪辱を期し、団九郎以下六名の頭取、十八名の雑兵を討ちとり、「凱歌を揚て」引きあげた。田中方は潰走したのであろう。二十四名の死体は野中にうち棄てられ、哀れ至極のありさまだったと記録は伝える。荒川方の死者は三名、手負いは三百余名だった。大将がおり雑兵がいるといった具合で、まさに本格的な合戦だったことがわかる。数千規模の動員は近郷の合力があったことを物語る。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;082p&lt;BR&gt;それはおのれの必要とするものを他者との関係ぬきにおのれのものと認定する自由であって、その認定を裏づけるのは暴力(ゲヴァルト)である。すなわちそれはホッブスのいう狼の自由にほかならない。狼の自由の別名を弱肉強食という。野々瀬は「死傷者を数多く出すことにもなりかねない」というが、なりかねないどころか、そうなるのがこの種の紛争の常態だった。ということは強力な戦力を編成し得た方が主張を貫徹したわけで、これはまさに強者の自由といわねばならない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　問題の本質は当時の惣村が他の社会構成単位と同様、武力による自己救済権を保有していたことにある。水争い山争いで相手の村民を打ち殺してもなんら異様なことではなく罪にも問われなかったというのは、惣村が交戦権を保持する小国家まがいの存在だったことを意味する。今日国家間の武力紛争で、兵士が敵国の兵士を殺害してもなんら犯罪を構成しないのと事情はまったく同一である。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;しかしそのような主張を保持し、それにもとづいて権利・利害を争う相手国に対して武力行使の自由を持つからといって、そのような国民国家のありかたを、資源を含む係争物に関する自律的な決定権を保有するなどと讃美できるものだろうか。中世村落の自由と自律への思いいれは、根本的な倒錯を含んでいる。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　豊臣政権は村落間の紛争にあたって武力沙汰に及ぶことを禁圧し、強硬な態度で臨んだ。『多聞院日記』のいう八十三名という刑死者の数字は、他の諸記録に徴して正確とは思われないが、数十名にのぼったことは確実である。この数字は十分私たちをおどろかすが、当時において刑罰がほとんど死刑のかたちをとったのは、なにも権力のレベルだけではない。村落内での自検断による刑罰をみても、若衆組は蕨粉盗みの犯人だけでなく、その母親や子どもまでみな殺しにしたのだ。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　豊臣政権はしかも、村落間の山林・用水をめぐる紛争自体を禁圧したのではない。禁圧・処断の対象はあくまで武力衝突だった。豊臣政権自体の評価はさておいて、いやしくも一国規模で統一政権を樹立したものが、国内における各集団の暴力(ゲヴァルト)による問題解決を禁止し、殺人者を処罰するのは当然ではないか。そのことをもって自由と自律の否定とみなすのは、反国家の情念を核心とする戦後左翼に特有の倒錯である。&lt;BR&gt;083p&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;084p&lt;BR&gt;　琵琶湖の東岸にある安治村は湖岸の蘆刈場の所有をめぐって隣村と争っていたが、天正九（一五八二）年の村掟では、紛争において手柄を立てた者には褒美二千文(ちなみに密告の褒美の十倍)を与える一方、紛争現場に出合うのを怠った者には過怠銭五百文を課し、悪質な者は村八分に処すと定めている。紛争の犠牲者はもちろん手厚く補償された。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;隣村との紛争の現場で、村を代表してロ上を述べる使者役をつとめ、相手村の者から「たゝきころ」された彦四郎の息子には、「村役＝家役と領主役＝高役の双方を一代かぎり免除する」という補償措置がとられた。むろん領主に対する年貢（高役）は村が肩代りするのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;このような他村とのなわばり争いにおける村民の働きを賞罰し、犠牲者を補償する方式は、近代国民国家の遂行する他国との戦争における戦功への勲章の授与、徴兵忌避者の処罰、負傷者・戦死者遺族への補償という周知の方式とどこが違うのだろうか。安治村は一例にすぎない。このような慣行は十五、六世紀の在地で広く行われていたばかりではなく、徳川期農村にも引き継がれた。&lt;/DIV&gt;
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』７</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/02/20/7672042</link>
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      <pubDate>Fri, 20 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2015-06-19T13:21:34+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／弓立社&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;第二章　乱妨狼藉の実相&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;071p&lt;BR&gt;　幕府・朝廷が在地に浸透させようとした「窃盗軽罪観」がなぜ定着しなかったかという点については、笠松は「もの」には「たましひ」が付着しているものと当時の人々の心性によって受けとられており、盗みは「たましひ」を盗まれることだった故に「もっとも厭わしい忌むべき『つみ』を代表するもの」と感じられたのではないかという、非常に興味深い仮説を提示している。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;しかし、私が今問題にしているのは惣村の自検断の苛酷さである。先に引いた二例はみな盗みに関連しており、その苛酷さには笠松のいう在地の「窃盗重罪観」がたしかに影を落しているだろう。だが惣村は盗みだけでなく殺人や放火も裁いた。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　そしてその場合先にも述べたように、犯人は村人の入札(投票)によって特定された。考えてみれば、これはおそろしい話ではなかろうか。もちろん多くの場合、入札は正しい犯人を指したものと思われるけれど、村人の好悪の感情によって日頃孤立している者が誤って名指しされる場合も、けっして少なくはなかったはずである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;072p&lt;BR&gt;　一般輿論にもとづく死刑即決というのは、アメリ力西部劇の世界を思わせる。死刑は法的審理機構を欠くフロンティアにおいては、輿論にもとづいて執行されたのである。たとえ巡回判事によつて法的な仮装がなされたとしても、輿論による死刑即決は一種のリンチにほかならなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;村人の人札による犯人特定・死刑執行の慣行は、いうまでもなく、犯罪を捜査し審理する法的機構を欠くために生じた便法である。それは便法というよりむしろ、一種の緊急避難策というべきかもしれない。村共同体は盗みや殺人や放火を放置しては存続することができず、法的審理機構を欠く状況においては、村人の入札にたよるほかなかった。にもかかわらず、この慣行にはリンチ的恐怖がまといついている。異端やきらわれものは、そこで生きることができない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　中世後期に出現する惣村とはこうしたきびしい規律と制裁を伴う世界だったのである。全国を統一する政府が存在せず、頼るべき統一的な法も行政も裁判も欠如し、生存そのものを自力に頼らざるを得ない全般的アナーキーの様相を深める戦国期において、惣村が自立し自衛するためには、何よりも村人の村への帰属意識を強化し、結束を計らねばならなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;村人の人札によって犯人を決定するというのも、一種の内部団結の固めかたなのかも知れない。裁判権と武力を持つとなればこれは立派な主権的団体であって、惣村はいわば地域的小国家として乱世を生き抜くために、内部の統制はおのずときびしいものたらざるを得なかったのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;073p&lt;BR&gt;　つまり惣村の運営は年老(おとな)・中老・若衆という年齢階梯制にもとづいて分担されたのであるが、彼らはいずれも宮座の正式メンバーであり、そのメンバーたりえない一般百姓とは区別される特権的な身分を構成していたことを忘れてはならない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;年老・中老・若衆の身分は烏帽子成(えぼしなり)・官途成(かんとなり)〔助・衛門・兵衛などの律令制的官途につく形式を踏む通過儀礼〕・乙名成(おとななり)といった儀式によって獲得されるが、それは「多くの出銭や村への金銭・物の奉仕等と不可分であり」、経済力にもとづく階層差の表現でもあったのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　先に日根野荘で起った苛酷な村の自検断の例を紹介したが、蕨粉を盗んだ子どもとその母親を殺害した若衆とは、日根野荘の場合宮座の臈次（席順）であって、それ自体村内での特権的身分に属している。藤木久志は次のようにいう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;「若衆は『元服』から『おとななり』までの青年であるとしても、村に住むこの年齢層の青年すべてが『若衆』の年齢組に属したわけではない。……すなわち、これまで『若衆』として登場してきたのは、ほとんどが村の『座』に帰属する家格をもった家に生れ、若衆から中老を経て老者への階梯を約束された青年たちであったにちがいなく、村の年齢組そのものが明らかに閉された体系であった」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　だとするなら若衆の自検断は、その発動された対象が巫女や寡婦であることから明らかなように、強烈な階層的差別意識にもとづいてなされたのである。相手が村内の疎外された存在であったからこそ、自検断は一家みな殺しという苛酷な様相をとったのではあるまいか。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;075p&lt;BR&gt;　だが問題は惣村が戦国という全般的アナーキーに対応して、いわば地域的小国家として自立せねばならなかったことにある。惣村が成員に裁判権をもち、村員全体が武装してその指揮権を村内上層部を握っていたというのは、惣村が国家にまがう主権団体だったことを意味する。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;先の話に出て来た正円右馬が妹の家に具足一領を預けていたことを思い出してほしい。また領主政基の住居で催された吉書の儀に、村民が腰刀を帯びて出席していたことも思い出してほしい。領主政基はこの段階で早くもその検断権をないがしろにされていたが、村はやがて領主に村請した年貢を、それも滞りがちに届けるだけの自立した段階に進むであろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;そもそも政基が在荘したのは、彼がわが家の家司を斬殺し、その禁慎の意味があってのことで、領主が荘内に居住するなど、ふつうあることではなかった。このように自立する主権団体としての惣村は、それ自身の利害によって隣接する他の惣村ときびしい抗争を繰りひろげることになる。それがいわゆる山論・水論である。
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』６</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/02/19/7672039</link>
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      <pubDate>Thu, 19 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／洋泉社MC新書&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4862482643&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;&lt;BR&gt;第三章　武装し自立する惣村&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;064p-弓立社&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　勝俣鎮夫によれば「この近代の母胎となった新しい村の成立」は、「家とともにその後の日本社会に規定的性格を付与したもの」で、「幕藩制なる政治形態もいわば村町制の成立が生みだしたひとつの政治形態にすぎ」ず、従来「荘園制(在地領主制)から幕藩制へ」ととらえられてきた社会的大転換は、「荘園制から村町制への転換」としてとらえ直されるべきだという。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　新しい共同体としての村落、いわゆる惣村は、惣有財産、惣掟（村法）あるいは自検断の存在と、年貢の村請の成立を指標とするとされるが、勝俣はとくにこの村請の意義を重視し、「自生的に生まれ、自立的・自治的性格をもつ村が、社会体制上の基礎単位として承認されるようになったのは、この村請の成立によってであり、荘園制から村町制へという観点からみるとき、ひとつの画期をなす農民側の達成とみることも可能」だと主張する。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;065&lt;BR&gt;　村請とは、荘園領主が検注帳にもとづいて農民を個別的直接的に把握し、毎年実検を行なって年貢・課役を決定・徴収する従来のシステムに代って、村が領主と起請契約して、一定額の年貢・課役の納入に責任をもつシステムである。したがって、従来は領主が個々の農民について未進の追求や減免措置を行なっていたのに対して、村請においては、減免は村を対象として行なわれ、未進の場合は領主は村の責任者を追求することになる。このような村請制は、畿内では十五世紀に始まり、戦国時代に一般化する。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　この新しいシステムの画期的な意義は、勝俣の指摘するように・領主対個別農民の関係が領主対村の関係に変化したことにある。「それぞれの村内の農民は、これ以後直接的にはまったく領主との関係をもたなくなった」。個々の農民が貢租を納入するのは村の責任者である番頭に対してであり、田畠の所有も村によって保証され、所持権の移動は番頭の署名によって確認されたのである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　村請制はまた重大な帰結を生んだ。勝俣があげる和泉国日根野荘においては、村請の成立とともに荘内の社寺免田、灌漑施設維持の免除分が領主の手をはなれ、村の管理する惣有財産へ移行したのである。このことは「領主権の中心をなす勧農権・仏神をとおしての荘内の安定化・繁栄化の義務などを領主が形式的にも放棄してしまったことを意味する」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　村請制の成立はひとくちに言って、荘園領主の支配権の空洞化と、村落共同体に結集した村人の自立を示すものであるが、そのような動向をさらに劇的にあらわすのがいわゆる村の自検断だろう。中世領主は領内において裁判権を保有しており、それこそ彼らの支配権の中核をなすものだったが、惣村が確立した地域においては、村自身による検断の慣行が成立し、領主の検断権はそれに制約されてその実質をほとんど失なっていた。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;066p&lt;BR&gt;　彼が提示した別例によれば、荘内の検断についても、領主政所は地下衆の集会評定や沙汰人のイニシャティヴに任せきっていた。政所は「地下の自検断の庭としての位置を占めていた」のである。藤木はさらに、村の成員の一員が政所を名乗る「百姓政所」の存在を推定し、彼らが戦国末期には「庄屋」と名を変える例を検出した。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;067p&lt;BR&gt;　このような藤木の立論は酒井紀美によって補強されている。彼女は「明らかに在地の百姓であるもの」が政所を称している例をあげ、さらに近江国菅浦の例について「政所の決定は宿老廿人の支持を得て成されたようで、領主側はそれを承認しているにすぎない。このように、政所を実質的に支えているのは在地の年寄層で、政所は、彼等の一員であり、彼等の意向を受けて荘運営の中軸に位置」すると述べ、このような藤木の呼称によれば「百姓政所」の出現自体、「在地社会の力量の進展」を示すものとする。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　勝俣鎮夫は日本の中世が「私的復讐が支配した時代」であり、「個人的私闘は、集団的私戦にすぐ転化する要因があった」ことを指摘する。中世の人々は「自己に加えられた侮辱に対する過敏さ、爆発的憤怒の感情、激しい闘争本能、死に対する絶望的なまでの感覚」において際立っており、喧嘩はどんなに些細な原因によるものであっても、ただちに血で血を洗う私戦に転化する。「喧嘩は、私の怒・私の怨より行動するのであって、忠と義により参加する合戦より、はるかに内からの勇気がわきおこる(『翁草』)といわれる如く、生命を賭して戦われたのである」。そして惣村はまさしく、このような流血沙汰にいたる喧嘩の担い手のひとつだった。&lt;BR&gt;068p&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;070p&lt;BR&gt;　しかし、村の自検断の苛酷さは彼らの生きる環境のきびしさの反映であったかも知れない。石田善人の記述に従って、入山田村の事例をもうひとつ紹介しておこう。永正元(一五〇四)年の冬は前年の早魍のために「村人は深刻な飢饉に直面していた。村人たちは山野に人って蕨を掘り、それを粉にしてかろうじて飢えを凌いでいたが、灰汁の強い蕨粉は一晩河流につけて晒さねばならない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;それを連夜盗みにくる者があるので、村人は見張番を立てたところ、盗人は鎮守滝宮の一ノ巫女の子供であった。村人は逃げる子供を追いかけて巫女の家に逃げこんだ子供とその弟、母親の巫女の三人を殺した。……四十日ばかりたってまた蕨盗人が見付かったが、このときにも、家内に追い込んで家族ともに殺害した。寡婦二人と十七、八の男子と年少の子供たちで、計六、七人にも及んだという」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;「見張り番に立った村の若衆には盗人は殺してもよいという許可が与えられていたが、それは地下一荘の衆会の決定であったはずである」と石田は言う。村人全体が飢え死の危険にさらされている以上、このようなぎびしい制裁も村人の道理に叶うものであったろう。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;しかし、この二例は今でいう母子家庭であり、このような弱者に対する制裁としてはあまりに苛酷だという感覚は当時も在ったのである。「事件の報告を聞いた政基は『地下沙汰の次第は証人を一人も生かしておかずその母親まで殺害したのは甚だ乱吹である』と処置の残酷さに憤慨した」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;和泉国日根野荘の領主・九条政基&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　笠松宏至は「わが国の中世社会には『ぬすみ』に対して対極的な法思想が長期にわたって二つながら存在し続けた」と言う。ひとつは些少の盗みでも死刑、咎は「親類妻子所従に及ぶ」という「在地の村落社会において現に通用していた極めて苛酷なルール」であり、この「窃盗重罪観」は荘園本所法にもとりいれられた。もうひとつは「撫民」の見地から窃盗を「根本軽罪」「指たる重科にあらず」とする公家法、幕府法の「窃盗軽罪観」で、笠松によれば後者は前者すなわち在地の過酷な法実態を何とかして抑制しようとするものであった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;支配者に悪と非理を見、被支配者に善と理を認めようとする民衆史観とは逆に、この場合、幕府・朝廷が在地の因習を改めようとする開明的な立場に立っていることは明かである。笠松は「われわれの間では、窃盗をしても、それが相当の金額でなければ殺されることはない。日本ではごく僅かな額でも、そのことによって殺される」というフロイスの言述を踏まえて、&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;「大局的にみればわが国中世の公権力が制定した『軽いぬすみ』の罪は、世界史的にみてごく標準的な法理であったといえよう。だからもし、そのような『ぬすみ』の罪が、ほとんど死をもって償わなければならない今一つの『重いぬすみ』の罪を駆逐して、中世の社会に定着していたなら、十六世紀に渡来したフロイスを窃盗犯処刑の故をもって駕かすことはなかったのである」と述べている。
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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      <title>渡辺京二『日本近世の起源』５</title>
      <link>https://kumano.asablo.jp/blog/2015/02/18/7671955</link>
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      <pubDate>Wed, 18 Feb 2015 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2015-06-19T09:56:43+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;DIV class="asahi_editor_line"&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;『日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』渡辺京二／弓立社&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;&lt;A target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014"&gt;http://www.amazon.co.jp/dp/4896674014&lt;/A&gt;&lt;BR&gt;&lt;SPAN class="asahi_editor_styling" style="font-weight: bold;"&gt;&lt;BR&gt;第二章　乱妨狼藉の実相&lt;/SPAN&gt;&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;047p&lt;BR&gt;　戦場での人身捕獲は「人取り」と呼ばれた。「乱取り」は掠奪一般を指すが、対象には人身が含まれる。藤木は北は奥羽から南は九州に至るまで、このような乱取りの様相をくわしく紹介している。乱取られるのは敵軍の雑兵や人夫の場合もあって、この場合は戦争捕虜といってよいが、史料は多数の非戦闘員、つまりは敵地の一般住民が乱取られたことを物語っている。一五六六年二月、常陸の小田城を攻め落したさい、上杉謙信は「春中、人ヲ売買事」を許し、城下にはたちまち市が立った。売値は二十文、三十文という安値だった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　捕虜はそれを捕獲した兵士の分取り品である。二束三文で捕虜をたたき売ったのは、その所有者たる雑兵たちだったのだ。藤木は乱取りに熱中したのは雑兵であり、それは「草の根の雑兵たちの手柄（縁ぎ）とされて、名誉ある武士の戦功とはまったく別の世界に属していた」ことを明らかにした。武将は、戦場を掠奪という経済行為の場と心得る麾下の雑兵たちに対して、戦闘の報酬として乱取りの権利を認めないわけにはいかなかった。雑兵とは先にも確認しておいたように、その実体は農民にほかならない。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;048p&lt;BR&gt;　雑兵は戦場での稼ぎを村のわが家へ持ち帰った。藤木は『甲陽軍鑑』の記述に従って、武田信玄領の領民は、こういう分捕りのおかげでみな豊かで、戦争だといえば、いやがるどころか喜んで出て行くという気風だったと述べている。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;民衆はたしかに戦争の悲惨な被害者であったにちがいないが、一面ではこういう能動的な参加者でもあった。この点をおさえないと、戦国後期という一大動乱期の内包する意味を見失なうことになろう。藤木が戦争は民衆の「生命維持装置」だったというのは、こういう一筋縄ではいかぬ戦争の様相をふまえてのことである。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;053p&lt;BR&gt;　しかし同文書によれば、奴隷の第一の給源は戦争捕虜であった。同文書は、売られる奴隷が正当な戦争で得られたものかどうかポルトガル人には判定できず、日本にはヨーロッパにおけるような正当な戟争などないと承知しながら、売られる少年少女が売り手から強制されて「正当なる戦争で捕えられたり」と述べるので、買い取らぬわけにはいかないと弁解している。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　岡本が「ここに説く奴隷となるの第一の理由は、諸侯間の戦争に因る捕虜もあるが、寧ろ他領の住民を掠奪し来つて捕虜と佯りポルトガル人に売つた方が多かつたといふことである」と述べているのは、まさに先駆的な明察というべきである。一五八七年、マニラで平戸船の日本人から聞きとりを行なった一文書によると、「何故に奴隷となるや」との問に、その日本人は「奴隷は最も普通には戦争中に生ずるなり」と答えている。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;058p&lt;BR&gt;　信長が一五七三年、京を焼打ちした時の有様は、フロイスによって次のように伝えられている。「恐るべき戦慄的な情景が展開され、全上京は深更から翌日まで、同地にあったすべての寺院、僧院、神、仏、財宝、家屋もろとも焼失し、確認されたところでは、都周辺の平地二、三里にわたって五十ヵ村ほどが焼け、最後の審判の日の情景さながらであったという。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;兵士や盗賊たちは僧院に赴き、憐れな仏僧らは僧衣を俗服に替え、袖や懐に彼らが所持していた金銀、また良き茶の湯の器を押し込んだが、その結果、さっそく追剥の手中に陥り、所持品や衣服を奪われたのみならず、虐待と拷問によって、彼らが隠匿していたものを白状するように強制され、結局そのとおりにさせられてしまった。兵士や盗賊らが、出会った男女や子供たちからその所持品を奪い取るため加えていた残虐行為に接するのは、きわめて嘆かわしいことであった」。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;062p&lt;BR&gt;「地下人は、基本的には日常の生活や生産活動の安全が保証される限りで領主支配を受け人れているのであり、あらゆる犠牲を惜しまず領主に無償の奉仕を行っていたわけではな」い。放火や稲薙・麦薙はそういう地下人の心理に揺さぶりをかけ、その抗戦意志を挫くために遂行された作戦だったと山本は言う。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　つまり掠奪において一般住民が単なる被害者ではなく、それを遂行する主体であったのと同様に、放火・稲薙・麦薙においても、一般住民は天から降ったような災難に泣くたんなる被害者ではなかったのだ。当時の地下人は「戦争なんぞは領主同士が勝手にやるもので、おれたち民衆にはいい迷惑だ」などとは考えなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;周知のように幕末、馬関戦争の際、長州の民衆はよろこんで四国艦隊の弾運びをしたといわれるし、戊辰戦争の会津攻めでは、領民が領主の滅亡に無関心だったのを見て板垣退助は衝撃を受けた。しかし戦国末期の大名領国の領民は山本が言うような二面性を保ちつつも、領主なんぞ勝手に滅びるがいいさとうそぶける立場にはなかった。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;放火・稲薙・麦薙といった現象をとっても、「その様相を具体的にみるならば、大名や国衆に率いられて郷村から動員された土豪・百姓らが、尖兵となって敵地の郷村に居住する土豪・百姓の日常生活や農業生産の基盤の破壊を行うことに他ならなかった」という山本の指摘はきびしい。&lt;BR&gt;&lt;BR&gt;　乱取り、掠奪、放火、作物の刈り捨て等々、戦乱に伴う暴行は支配者・被支配者が矛盾・対立を含みながら一体となって作り出した「乱世」的現象であった。この乱世が新しい秩序を生み出すための陣痛であったとしても、ひとはそのような状態に安住することはできない。乱世は誰かが終熄させねばならなかったのである。もちろんその誰かが一人や二人の英雄ではなく、無数の地下人たちの複合した相貌で立ち現れたとしても。&lt;/DIV&gt;
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      <dc:subject>渡辺京二</dc:subject>
      <dc:subject>日本近世の起源</dc:subject>
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