那智の滝水源域の歴史2006年06月18日 15:29

 那智の滝の水源域は明治までは寺山(青岸渡寺所有林)であった。「紀伊續風土記卷之八十」の「牟婁郡第十二 色川郷」に下記のような記載がある。(旧字が多いので略字に変更しています)
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○寺山ノ樫ノ実
寺山は那智山の奥の総名にして今は那智境内四至の外にあり。其広さ二里四方という那智山に四十八瀧の構ありて瀧行者の行場とす。其瀧多く寺山の内にあり且此處一の瀧の源なれば奮那智山の区域なる事明なり。其区域広大なるに他木を植えずして一面に樫木許を植えたり。其故は樫木は□□まさる故四時山色□□として霊山の姿を表すへく且瀧の源水を蓄ふるに宜しくして材木の用あらざれば伐荒す害なし。其実を拾いては食料となすべく全人用とならざるにあらず。
:(中略)
何れの時にか有けん。一蹈鞴(ヒトタタラ)と呼ぶ強盗此山中に栖みて時々出て神賽を盗み社家を侵し掠むること数々なれども社家是を捕ふる事あたわず。其頃樫原村に狩場刑部左衛門という猛きをのこあり。社家是を頼みて一蹈鞴を誅せしむ。その恩賞として寺山を立合山となすという。
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 寺山の木は源水の保全と伐採被害を防ぐため樫を中心とした森としており、あるとき盗賊征伐の恩賞として色川村に(樫の実を拾う)立合権を認めたという記述です。上記の後に、樫の実は食料として利用し、色川村一戸あたり十から十五俵の収穫があったとの記載がされています。

 その後明治7年になり寺山800町歩が官有林に移されたようです。
 明治後期に、官有林を裁判で地元の所有に取り戻すブームがあり、新宮町の勢力家の暗躍などで寺山を色川村の所有にする裁判がおこされ、明治43年の判決で色川村の勝訴が確定し、寺山の伐採と転売が行われたようです。
 しかし色川村の方が潤ったかと言えばそうではないようです。記録でも色川村の利益の6割は裁判費用として弁護士等に取られたそうです。

 翌年の明治44年に上記裁判証拠が偽造等であることが発覚し、裁判をおこした中心人物たちが捕えられる疑獄事件となった。「南方熊楠全集」の明治44年8月29日の松村任三宛の書簡でも、下記のような記載がある。

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かの徒の書上中にも、三万円は運動費(悪く言わば賄賂)に使うた、と書きあり。しかして、色川村のみの下付山林を伐らば二十万円入る。一戸に割りつけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を掴み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ。
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 この後、用材価値がある木は伐採され、山林も転売が続いたようです。しかし伐採といっても人力や馬力による搬出であり択伐であったため、全山的な荒廃にいたることは無かった。

 この状態が変化したのは昭和17年に着工し21年に完成した大雲取山林道が完成してからです。戦中戦後のエネルギー需要のために林道付近から皆伐が開始されたようです。
 さらに昭和52年に水源林の尾根部分を中心に広範囲な林道網が整備されるまでに、ほぼ大部分の山林が杉桧の植林への移行が完了しました。

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 なお現在の山林所有者に移転された年代などを記載します。

1) 国有林 昭和32年売買で取得
2) 明治神宮 昭和43年に木原造林が寄進(木原造林は昭和32年に売買で取得)
3) 松本林業 昭和22年に売買で取得

 おおまかな所有者区分を色分けした地図が下記になります。灰色や暗色系の塗り潰しは、等高線の強調のための着色です。水色の部分は青岸渡寺か那智大社の所有林です。
所有者区分色分け地図

補足:
 今回記載の内容は、那智勝浦町在住の研究者が有志の勉強会でお話された内容を要約したものです。
 なお水源域の脆弱地層は、熊野酸性火成岩が風化し真砂土化した脆弱地層だそうです。脆弱地層の厚さは多分数m程度と思われるそうです。

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